柔道関連書籍紹介

高い志を持って勝負にこだわり、引退後も柔道界の発展に尽くしてきた佐藤宣践氏。
佐藤氏の柔道人生を記した自伝書「力必達」には、柔道の魅力や柔道界に対する熱い思いが綴られています。

佐藤宣践先生退職記念集「力必達」

力必達
目次

2.「柔道の虫」と呼ばれて

私は、「寝技の佐藤」と言われた。また、全日本強化選手であった頃、コーチの神永昭夫先生からは『蝮(まむし)の「と金」』と呼ばれた。将棋の「歩」が「と金」に転じて盤上大暴れするという意味である。二つが合わさって「蝮の宣ちゃん」とも…。
大学時代(東京教育大学)の仲間は、柔道部誌に、「決して器用とは言えないが彼が多彩な技を繰り出すのを見るにつけ、抜群の密度の濃さを誇る稽古の賜物とつくづく思う」と記している。分かりやすく言えば、典型的な努力型、食い付いたら離さないしつこい柔道である。
いろいろな人が評する通り、私の柔道は見る者を魅了する美技には程遠い。柔道世界一、日本一を獲得したチャンピオンたちの中では、立技のバネ、スピードに劣り、技の冴えがなかった。しかし、身体の柔軟性、足腰の粘り、スタミナが秀でていたので受けが強く、バランスは良かった。
短所は左右の技をこなすことでカバーし、長所を寝技で活かした。言わば研究と工夫で積み上げた「粘りと考える柔道」である。その地味な柔道で、日本と世界の頂点に立つことができた。

昭和19年(1944)1月12日、私は北海道函館市に父・栄、母・信子の三男として生まれた。父は北海道学芸大学(現北海道教育大学)体育科の教授(陸上競技が専門)で、母・信子も女学校時代は水泳の選手で鳴らした。
体育・スポーツに深い理解を示す両親の下で、相撲や野球などの運動に熱中する日々を過ごした。小学校は、北海道学芸大学付属函館小学校に通い、中学校も同付属函館中学校に進む。柔道に出会ったのは、この時である。

■中学校

サッカー部と柔道部に籍を置いたが、サッカーが主で、柔道は冬に行なう程度だった。サッカーで鍛えられた脚力とキックでの軸足の使い方などが、後に柔道に役立つ。柔道で習った技は右の背負投、対外試合に出ることはなかった。

■高等学校

進学校の道立函館中部高等学校に入学し、柔道に打ち込む日々を送った。同校から東京教育大学(現筑波大学の母体)へ進んだ4歳年上の兄(宣紘)の影響が大きい。兄のように強い柔道選手になりたい一心だった。
兄は、東京から手紙で練習方法や戦い方などを教示し、夏休みや冬休みに帰郷するとマンツーマンで特訓してくれた。左の組み手、奥襟を持った左大外刈と支釣込足、そして寝技は兄の指導で身につけたものである。
柔軟性はあるものの瞬発力が劣っていたので立技よりも寝技を研究して勝利に繋げる方が得策という考えからだった。北海道の冬は寒く、まず寝技から稽古が始まったことも得意になった理由だろう。
左の大内刈や内股、右一本背負投、それに支釣込足から払釣込足への連絡技は稽古の中から必要に迫られて、あるいは自然に覚えた。

柔道の実力は確実についていった。高校1年の夏に初段(黒帯)となり、2年で二段、卒業直後には三段に合格した。試合では、目標としていた「全道優勝」を3年生の時に達成することができた。
柔道に熱中し過ぎると勉強の成績が下がる。父から叱られる時もあったが、そんな時にも兄が助け船を出してくれた。部活の指導者は三沢誠一郎先生であった。進学校の悩みは部員確保で、受験勉強のために練習を辞める者が多い。
三沢先生は、「短時間でも真剣に練習に打ち込めば両立は可能で、受験勉強も体力が勝負になる」という考えから「真剣なる努力」を部のモットーに掲げられた。先生と一緒に部員確保に苦労したことを思い出す。

■大学

兄と同じく東京教育大学体育学部へ進み、柔道部に入部した。監督は、大学OBで在学中に全日本チャンピオンとなった猪熊功先生だった。私は、後に猪熊先生から誘われて東海大学に就職したので、東教大での出会いが東海大学への道の第一歩ということになる。
多忙の猪熊監督が大学道場に足を運ぶのは週1、2回程度だったが、強烈で闘志あふれる練習に接し、格闘技の何たるか(闘魂)を教えられた。「百聞は一見に如かず」である。
膝や腰を痛めたが、その時は怪我を幸いとばかりにウェイトトレーニングや寝技の研究に励み、稽古ができる時は大学の他に講道館や警視庁などへ強い相手を求めて出かけた。技の面では、右の一本背負投から一本背負大外刈への連絡、右袖釣込腰、左帯取返から寝技への連絡変化、三角絞などを修得した。

学生時代には「全日本柔道選手権大会出場」の目標を立てた。4年生の時に実現したが、あこがれの全日本大会では予選リーグ戦を勝ち上がることができなかった。だが、「練習に励めば入賞できる!」という感触を得た。この体験は大きかったと、今でも思う。
なお、在学中に父が他界した。経済的に家は苦しかったと思うが、母と兄が支えてくれた。

■社会人

昭和41年(1966)3月、大学卒業。就職は、故郷・北海道に帰って教員になるつもりだったが、一足先に北海道で教員になっていた兄から、「夢を叶えたいのなら東京に残れ。教師より実業団に入った方が良い」とのアドバイスを受けた。
私は、兄の言葉に納得して、当時実業団柔道の強豪だった博報堂に入社した。目標は、全日本柔道選手権大会で優勝すること。連日、明治大学や講道館に通って、練習に打ち込んだ。また母校柔道部の監督も引き受けた。
技の工夫研究をさらに進め、寝技への繋ぎ技として巴投と浮技を覚え、立技では左体落を外国選手対策として修得し、この体落と大内刈を相互に連絡させて攻撃パターンを広げた。
外国選手対策としては、彼らの母体となっているレスリングやサンボの研究も怠らず、熱心に練習した。この他、外国選手が得意とする双手刈や十字固、裏投などの対策も十分に行なった。

博報堂柔道部の監督は、東教大先輩の恩田和也氏だった。理系の恩田監督からは、技の理論的分析や試合に向けての調整方法、戦い方などを学んだ。これが、私のコーチング理論の基礎を築いたと言ってよいだろう。時を経て、恩田監督の御子息を東海大学で私が教えることになる。何かしら縁を感じる。
卒業した年の8月に行なわれた全日本体重別選手権大会重量級で2位入賞し、少しは注目されるようになった。


翌42年(1967)の全日本では念願の決勝に勝ち上がったが岡野功選手に技有(一本背負投)を取られて負けた。体格的には自分より小さい岡野選手に負けたことが悔しくてたまらなかった。闘争心はいやが上にも高まった。
しかし、成績は、昭和43年(1968)3位、45年(1970)ベスト8、46年(1971)準優勝、47年(1972)3位と上位進出するが、目の前の「優勝旗」を手にすることができない。この間、世界チャンピオンに2回なるものの、やはりそれでは納得できない。


話は前後するが、昭和44年(1969)1月、博報堂を退職して東海大学体育学部の教員になった。その時、私は二つの目標を立てた。
一つは、全日本で優勝すること。もう一つは、柔道部を学生日本一にすること。
東海大学は、昭和42年(1967)に体育学部を設置、翌年に武道学科が増設された。日本武道館設立にも尽力された大学創立者の松前重義総長の下に武道教育、及び学生柔道に新しい風を巻き起こそうという意欲に満ち満ちていた。
私は、松前総長のご理解とご支援を受けて猪熊功先生と力を合わせて頑張れば目標を達成できると確信した。それに、教師は私の天職でもあり、水を得た魚の心境だった。
しかし、「全日本で優勝」の夢は夢のまま、なかなか実現しない。心の中では、「来年こそは」と「もう無理なのかな」の、二つの気持ちが交錯していた。
そのような状況で迎えたのが昭和49年(1974)の全日本選手権大会だった。30歳になっていた。この年は、1月から体調を崩して十分な練習もできず、初出場以来最も調子が悪かった。「これが最後だろう、だから一戦一戦悔いのない試合をしよう」と決心し、大会に臨んだ。期するものがあった。兄も34歳の最年長選手で出場し、開会式で選手宣誓を行なった。
試合では、気力を振り絞って戦った結果、鮮やかな勝ち方ではなかったが、決勝まで進んだ。相手は長身の二宮和弘(福岡県警)選手である。 一進一退の攻防で、どちらが勝ったのかは分からない、主審の「判定」の声に副審二人の赤旗が上がった。私の勝利を示す旗である。その瞬間、頭の中が真っ白になった。まさに天にも昇る心地だった。

優勝後、落ち着いてから思ったことは、「目標を立てて諦めずに挑戦すること、勝負は運も大きく左右するが、努力し続けることによって運が向いてくる」ということだった。 柔道創始者・嘉納治五郎師範がよく使われた「力必達」の意味を自分なりに感じ取ったように思う。


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