柔道関連書籍紹介

高い志を持って勝負にこだわり、引退後も柔道界の発展に尽くしてきた佐藤宣践氏。
佐藤氏の柔道人生を記した自伝書「力必達」には、柔道の魅力や柔道界に対する熱い思いが綴られています。

佐藤宣践先生退職記念集「力必達」

力必達
目次

3.目標に向けての日々−「優勝」への道のり

大学卒業後、博報堂に入社して社会人となった私は、母校(東京教育大学)柔道部の監督を一時期引き受けた。指導者としての第一歩と言ってよい。
忘れ得ぬ思い出は、全国大会で優勝候補だった拓殖大学を作戦と粘りの柔道で破ったこと。この一戦、東教大が7人戦で勝てる選手は1人しかいない。その1人に立技で勝負させ、残りの者たちには全員粘りの寝技で引き分けさせた。作戦的中、選手たちは自分の役割をよく理解して奮闘した。
だが、内外から勝負にこだわり過ぎとの批判を受けた。私は、非難の渦中で「今に見ていろ、立って良し、寝て良し、攻め抜いて勝ち抜く選手を生み出してやる」と、心中ひそかに決意したものだ。後に、その理想は山下泰裕という逸材によって実現するが、「東海柔道」の下地は、この時の思いにあると言ってよいだろう。

東海大学への話は、今は亡き猪熊功先生からだった。その時のことは、よく覚えている。あれは社会人二年目の、世界柔道選手権大会出発前だった。次のように言われた。
「東海大学の松前重義総長は、世界に通用する指導者を育成するために体育学部を作られた。来年は武道学科もできる。その中で柔道部を日本一にしたいという夢を持っておられる。自分は別の仕事があるので常時指導できない。そこで、武道学科教員として赴任し、柔道部監督として指導して欲しい。」
博報堂との間で3年契約を交わしていたので直ぐには動けなかったが、昭和44年(1969)1月、私は神奈川県平塚市の湘南キャンパス武道館に立った。住居も大学近くの教職員住宅に移り、新たな柔道人生が始まった。

ところが、柔道部に在籍する部員は結構いるが、道場にやってくるのはせいぜい20人前後。日本一に向けてゼロからのスタートだった。私は、部員を集めて宣言した。
「私自身が全日本選手権で優勝する、そして東海大学柔道部を学生日本一にする」と。部員たちは、ぽかんとしてあっけにとられている。東京地区大会の1、2回戦で敗退していた柔道部であったから、無理もない。さらに、続けて言った。
「君たちの時代は無理かもしれない。しかし将来必ず日本一にしてみせる。そのための基礎を君たちが作ってくれ。目標を持たない者は進歩しない」
無名の柔道部を日本一にする。湘南キャンパスから仰ぎ見る富士山は形が良く、美しい。その富士山に例えれば、今は裾野にいるが必ず頂に立つと誓ったのである。

私は、先頭に立って厳しい練習を始めた。休みはない。授業のない日は東京へ出稽古。強い選手がいる警視庁、講道館、明治大学、東京教育大学、国士舘大学などを回った。
朝早く出かけ、夜遅く帰る日々が続く。私自身の稽古という意味もあったが、まずは練習の質と量を充実させなければならない。当時の部員たちの実力からすればきつかっただろうが、みんなよく頑張った。
指導者としての40年を振り返れば、3つに区分できる。
まずは監督として先頭に立った期間、次に昭和60年(1985)から教え子の白瀬英春君が監督となり、私は総監督として付属高校を含む学園全体の柔道部活動をまとめた期間、そして最後に師範の立場で大所高所から指導する現在である。

第1の期間で柔道部を最強に、第2の期間で学園全体の強固な強化システムを築いた。
そして第3の期間では、私も体育学部や全日本柔道連盟(全柔連)、国際柔道連盟(IJF)、さらには日本オリンピック委員会(IOC)などの仕事で多忙を極め、道場に毎日顔を出すことができなくなったが、より広い視野から学生たちに社会の動きを伝え、柔道の役割や使命を語れるようになった。
「教えることは学ぶこと」とよく言われるが、指導者としての仕事を振り返れば、私自身もまた大きく成長していることが分かる。
一つひとつの試合に思い出がある。選手の顔、部員の顔も浮かんでくる。紙幅の関係でそれらに詳しく触れることができない。ここでは、全体の記録と二、三の特筆すべき試合のみ触れておく。

■優勝記録(2009年3月現在)

全日本学生柔道優勝大会
14回  (監督7回、総監督3回、師範4回)
全日本学生柔道体重別優勝大会
  4回  (総監督2回、首席師範2回)
全日本選抜柔道団体優勝大会
  5回  (監督3回、総監督2回)
全日本学生女子柔道優勝大会
  4回  (総監督2回、首席師範2回)

■役員

世界柔道選手権大会
日本チーム監督 4回
夏季オリンピック競技
ロサンゼルス大会日本チーム監督
 
アトランタ大会日本選手団本部役員
 
シドニー大会日本選手団総監督

■メダリスト

11人の世界チャンピオン、また多数の国際的選手を育成。


初優勝が視野に入ったのは、白瀬英春君が4年生の時(昭和48年・1973)と山下泰裕君が新入生で入ってきた時(昭和51年・1976)だったが、昭和48年(1973)は準決勝で天理大学に、昭和51年(1976)は決勝で中央大学に敗れた。
この時は、山下という切り札を擁して東京大会で初優勝し勢いに乗っていただけに、試合後、選手、部員、そして応援のOBたちもみんなオイオイ泣いた。「この悔しさを決して忘れない」と全員が胸に刻み込んだ。

この頃、日本での柔道修業経験のあるユーゴスラビア人のR.コバセビッチ君が再び来日したいと希望していることを耳にしたので、松前総長のご支援を受けて留学生として受け入れた。国際大会で活躍していたコバセビッチが入部して核が二つになった。
翌昭和52年(1977)の大会でも前年同様に中央大学と決勝でぶつかった。しかし、今度は4−0の大差で圧勝した。監督就任9年目、念願の全国制覇を手にし、二つの目標を成し遂げて、感無量だった。


私は、目標達成後も手を緩めることはしなかった。「常勝東海大」を目指して力を尽くすとともに、怪童と呼ばれた山下泰裕を怪物に、不世出の柔道家に育てることに全精力を注いだ。
高校2年生で熊本から上京した山下を我が家に住まわせ、家族の一員として、寝食をともにしながら育成した。彼が素質ある少年であることは知っていたが、身近に接してみると私の物差しを超える大きな器であることをひしひしと感じた。

当時、私自身が日本のトップ選手だった。その私を、山下は立技ですぐに追い抜いた。得意の寝技でも、厳しく指導しているうちに私の方が劣勢になっていった。その成長ぶりに舌を巻いたものだ。
山下を強くするために妻や母などの力を借りてすべての面で気を配り、力の限りを尽した。考えようによっては、教えることを通して、むしろ私の方が指導の在り方について多くのことを学んだような気がする。私も山下も、必死だったのだ。
彼とは監督と選手の関係で数え切れないほどの試合を戦った。ここではスポーツ史に燦然と輝く、あのロス五輪の決勝での思い出を記しておきたい。山下は2回戦で右足肉離れの大きな怪我を負った。
準決勝で初めて外国人に投げられた山下の姿は痛々しく、誰もが金メダルは無理と感じた。決勝の相手はエジプトのラシュワン、お互いに手の内は知り尽くしている。私は、こう言った。
「この試合で俺たちの師弟関係を終わりにしよう」
次はない、退路を断つ。我々の最後の一戦という覚悟を伝えたのである。具体的には、「投げられて有効を取られても良い、寝技で勝負しろ」と指示した。

結果はよく知られているように、ラシュワンの払い腰をかわして横四方固めで抑え込んだ。立って良し、寝て良し、いかなる時でも攻め抜くという、私が理想とする柔道を絶対絶命の中で、山下が見せてくれたのである。
選手(弟子)の夢とコーチ(指導者)の夢が成就した瞬間だった。


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