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柔道の歴史

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五輪の正式種目でもある「柔道」は、日本古来の武術である「柔術」をベースにしたスポーツで、柔道の歴史は明治時代から始まります。柔術は、もともと武士が戦場で戦うために体を鍛える方法のひとつでしたが、「嘉納治五郎」(かのうじごろう)によって、心身を鍛えるだけでなく人間教育に重きを置いた現在の形へと変化。2023年(令和5年)現在、国際柔道連盟の加盟国は204の国と地域にまで拡大し、柔道は世界中で多くの人に愛されるスポーツとなりました。柔道の歴史と現代の柔道について、詳しく見ていきましょう。

柔道の起源と発展

柔道の起源と背景

柔道の発祥地「永昌寺」
柔道の発祥地「永昌寺」

日本をはじめ世界各国で行われている柔道の起源は、12世紀以降に生まれた「柔術」だと言われています。柔術は、戦の場で相手と接近して戦う「組み討ち」(くみうち)を想定した武術で、武士が体を鍛える手法のひとつとして武家社会のなかで発展し、江戸時代までにいくつかの流派が生まれました。

しかし、1868年(明治元年)に明治時代が始まると、日本人の生活に西洋の文化が取り入れられるようになった結果、古くから続いていた柔術の勢いが失われてしまいます。

そこで、嘉納治五郎は、柔術を新しい形に生まれ変わらせることで、再興を図りました。日本に伝わる複数の柔術を学び、各流派の長所を研究して新しい技や指導体系を確立。原理となる「道」があってこそ「術」(技術)が生まれるとの考えから「柔道」と名付けました。

1882年(明治15年)、東京・下谷北稲荷町(したやきたいなりちょう:現在の東京都台東区東上野)の「永昌寺」(えいしょうじ)に「講道館」(こうどうかん)と「嘉納塾」(かのうじゅく)を創設します。講道館は武術、嘉納塾は学問を鍛える場として、文武両道を目指すための場でした。創設当時の門下生は9人だったと言われます。

柔術(柔道)と剣術(剣道)

義務教育化による普及

1887年(明治20年)頃から学校の課外授業に柔道が取り入れられ、1931年(昭和6年)には学校の正式な科目となりました。教育課程に組み込まれたことによって柔道は広く普及し、学校対抗の試合や全国的な規模の大会が開催されるようになります。
また、同じ頃から警察官育成課程で採用されただけでなく、軍隊・企業・町道場などでも盛んに柔道が行われるようになりました。その結果、柔道を学ぶ人は次第に増えていったのです。

その後、1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終結すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって武道が禁止されました。柔道もその例にもれず、教育機関・町道場を問わず、活動が制限されます。
しかし、1948年(昭和23年)に全日本柔道選手権大会が復活。翌1949年(昭和24年)には全日本柔道連盟が結成され、柔道に復興の兆しが見られるようになっていきます。1950年(昭和25年)には学校で柔道の実施が許可されるようになり、学生が出場する全国的な大会も再び行われるようになっていったのです。

柔道は戦後から再び大きく広がりを見せ、なかでも海外への普及が加速します。1956年(昭和31年)には、東京で、男性選手のみを対象とした体重無差別形式の「第1回世界柔道選手権大会」を開催。その後、1980年(昭和55年)には女性選手のための世界選手権大会が開催されました。

五輪競技になるまでの歴史

柔道が五輪競技に追加されたのは昭和時代のことですが、それを実現した最初のきっかけは、明治時代にあります。
近代五輪の創設者で、当時「国際オリンピック委員会」(以降、IOC)の会長だった「ピエール・ド・クーベルタン男爵」は、スポーツの教育改革に熱心な人物をIOCに加えることを望んでいました。当時、嘉納治五郎は柔道のみならず各種スポーツを学生に推奨し、留学生も積極的に受け入れて体育教育に心血を注いでいたため、IOCから注目されることになります。そして、1909年(明治42年)に、嘉納治五郎は東洋人で初めてIOCの委員に選出されたのです。

IOC委員に就任してからの嘉納治五郎は、積極的に五輪にかかわっていきます。1912年(大正元年)の第5回ストックホルム五輪では、嘉納治五郎が引率を行い、アジアで初めて日本人が五輪に参加しました。その後も、嘉納治五郎はIOC会議や五輪競技の大会に出席し、各国の体育やスポーツを見聞すると共に、柔道を紹介して海外との親交を深めていったのです。
そのなかで、嘉納治五郎が全力で取り組んでいたのが、五輪の東京招致。ようやく1940年(昭和15年)の五輪を東京へ招致することに成功しました。しかし、開催を目前にした1938年(昭和13年)に、嘉納治五郎は肺炎のため死去。さらに、同時期に日本と中国の間で起こっていた「日中戦争」について、日本への批判が世界的に高まり、日本は五輪開催国としてふさわしくないという風潮が強まりました。日本で開催することによって、欧米諸国をはじめ出場を辞退する国が続出する恐れがあると考えたIOCは、日本へ開催辞退を促し、日本政府も開催中止を決定したのです。

その後、日本は第二次世界大戦後に再び五輪の東京招致に挑戦。並行して五輪競技に柔道を追加する活動を行いました。日本だけでなく、国際柔道連盟やヨーロッパ柔道連盟も精力的に働きかけた結果、1964年(昭和39年)の東京五輪招致と、男子柔道の正式種目採用が決定。当時は男子のみ4階級でしたが、1992年(平成4年)のバルセロナ五輪からは女子柔道も正式種目となりました。なお、2020年(令和2年)の東京五輪では新たに男女混合団体戦が追加され、男女各7階級+混合団体で実施されています。

西暦 柔道の歴史
1882年(明治15年) 嘉納治五郎が講道館と嘉納塾を創設
1895年(明治28年) 柔道の投技指導を定めた「五教の技」を制定
1909年(明治42年) 嘉納治五郎が東洋人初の国際五輪委員になる
1920年(大正9年) 「五教の技」改正
1930年(昭和5年) 第1回全日本柔道選士権大会の開催
1931年(昭和6年) 柔道が学校の正科となる
1936年(昭和11年) 五輪大会の東京招致に成功
1938年(昭和13年) 日本政府が五輪開催辞退を閣議決定
1945年(昭和20年) 第二次世界大戦が終結し、GHQが武道の禁止通達を発令
1948年(昭和23年) 第1回全日本柔道選手権大会の開催
1949年(昭和24年) 全日本柔道連盟の結成
1950年(昭和25年) 学校柔道の再開
1956年(昭和31年) 東京にて第1回世界柔道選手権大会の開催
1960年(昭和35年) 国際オリンピック委員会総会で柔道の正式種目追加が決定
1964年(昭和39年) 東京五輪の開催。柔道が初めて正式種目として採用
1980年(昭和55年) ニューヨークにて第1回世界女子柔道選手権大会の開催
1986年(昭和61年) 第1回全日本女子柔道選手権大会の開催
1987年(昭和62年) 世界柔道選手権大会が男女同時開催となる
1992年(平成4年) バルセロナ五輪の開催。女子柔道が正式種目として採用
2017年(平成29年) 世界柔道選手権大会で男女混合団体戦が同時開催となる
2020年(令和2年) 東京五輪の開催。男女混合団体戦が正式種目として採用

柔道の技術と哲学

柔道の組手
柔道の組手

講道館における柔道の技名称の始まりは、1895年(明治28年)に制定された「五教の技」(ごぎょうのわざ)で、当時は41本の技がありました。そして、明治の末頃に「釣込腰」(つりこみごし)が加えられて42本となり、その後1920年(大正9年)に技が見直され、40本に改訂された「新五教の技」が定められたのです。

講道館では長年これらを正式の技としてきましたが、次第に新たな技が増えてきたことから徐々に追加を行い、2014年(平成26年)からは投技(なげわざ:相手の体を掴んで姿勢を崩す技)68本、固技(かためわざ:畳に寝転ぶ姿勢でかける締め技)32本の、合わせて100本が正式な技名称となりました。投技と固技は技を大別する際の分類で、さらに手技(てわざ)・腰技(こしわざ)・足技(あしわざ)・真捨身技(ますてみわざ)・横捨身技(よこすてみわざ)・抑込技(おさえこみわざ)・絞技(しめざわ)・関節技(かんせつわざ)等に細分化されているのが特徴です。

柔道の基本技術

柔道の基本技術として、まずは「受け身」、「姿勢」、「組み方」から学ぶのが原則。正しい組み方や姿勢を理解し、かかり練習(打ち込み)や約束練習を行うことで、それぞれの技に応じた組み方や間合いを習得していくのです。また、相手の技に対して怪我のないよう、安全に受け止めるためには受け身が重要。そのため、個々の技に応じた受け身を繰り返し練習するのです。なお、技の習得順番は難易度や指導者の考え方によって異なります。

例えば、「袈裟固」(けさがため)や「横四方固」(よこしほうがため)、「上四方固」(かみしほうがため)といった固技を基本とし、投技を学ぶとしても足を使ったり担いだりする基本的な動作をベースにした技が主体。投げ手と受け手の双方が安定した状態を維持できる「体落」(たいおとし)から始まり、「大腰」(おおごし)、「膝車」(ひざぐるま)、「支釣込足」(ささえつりこみあし)、「小内刈」(こうちがり)、「大外刈」(おおそとがり)といった比較的受け身の取りやすい投技を学ぶことが多いです。

柔道の上級技術

どの技からが上級と言えるのかは判断が難しいですが、100ある技のなかには実戦で使うには難易度が高く、見かけることが少ないと言われている技が存在します。

例えば、2000年(平成12年)に開催されたシドニー五輪の柔道男子60kg級決勝戦で「野村忠宏」(のむらただひろ)さんが決めた「隅落」(すみおとし)は、微妙な体さばきによって相手の重心を崩し、その力を使って投げる技。手先だけで投げたように見えることから、別名「空気投」(くうきなげ)と呼ばれています。この隅落は、柔道の神様と呼ばれる「三船久蔵」(みふねきゅうぞう)が考案した技で、難易度の高さから実戦で使う人はほとんどいません。

また、幻の技と言われているのが、講道館四天王のひとりである「西郷四郎」(さいごうしろう)が考案した豪快な投技「山嵐」(やまあらし)です。直木賞作家である「富田常雄」(とみたつねお)の小説「姿三四郎」(すがたさんしろう)の主人公・三四郎が使用する技として有名になりました。ただし、使用者であった西郷四郎が、この技について直接的な説明を文章で残していません。そのため、後世の柔道家達にとって実態がはっきりとしない、幻のような技だと考えられています。

柔道の哲学と理念

柔道の創始者である嘉納治五郎は、「柔道は単に技を習得するだけでなく、天下の大道(義の心)を学ぶものだ」と考えていたため、道場を教育の場とし、「講道館」と名付けました。「講道」という言葉には「道を学んで明らかにし、実践する」という意味があり、この名称こそが柔道の本質。攻撃や防御の練習によって体を鍛錬して強健にし、精神の修養に努めて人格の完成を図り、社会に対して貢献することが柔道修行の目的です。

また、講道館には嘉納治五郎が提唱した「精力善用」(せいりょくぜんよう)と「自他共栄」(じたきょうえい)という理念が存在しています。

・精力善用
自分が持つ心身の力を、社会に対して最大限に善い方向で用いること。
・自他共栄
相手に対して敬いや感謝の気持ちを持ち、信頼し合い、助け合う心を育む。そして、自分だけでなく他人と共により良い世の中にしようとすること。

この2つの理念には、柔道を通して世の中を良くしていきたいという嘉納治五郎の理想が色濃く反映されていると言えるでしょう。

柔道の偉人達

嘉納治五郎

嘉納治五郎は、1860年(万延元年)、兵庫県生まれ。教育熱心だった母の「人に尽くす」という教えは、嘉納治五郎自身の考え方や人柄に影響を及ぼしたと言われています。

1873年(明治6年)、嘉納治五郎は小さな体でも戦うことができる「柔術」の存在を知りました。その後、1877年(明治10年)から「天神真楊流」(てんじんしんようりゅう)の「福田八之助」(ふくだはちのすけ)、1881年(明治14年)からは「起倒流」(きとうりゅう)の「飯久保恒年」(いいくぼつねとし)に師事し、柔術を身に着けていったのです。このとき嘉納治五郎は、柔術には様々な流派があり、それぞれに良さがあることを知ります。さらに、柔術を行うことで人間的な成長を感じると同時に、柔術が廃れていくことに危機感を覚えました。

嘉納治五郎は伝統的な日本の武術である柔術を残すため、1882年(明治15年)に近代スポーツの考え方を取り入れた「柔道」を創始。ほぼ同時期に「学習院」(現在の「学習院大学」:東京都豊島区)で教職につき、柔道を正科として自らが指導を行いました。その後、1893年(明治26年)に「高等師範学校・東京高等師範学校」(現在の「筑波大学」:茨城県つくば市)の校長に就任。教育改革、日本の学校教育の充実、体育やスポーツの発展などに寄与しています。

また、1909年(明治42年)にはアジアで初のIOC委員となり、アジアや日本の五輪ムーブメントの推進に貢献。その結果、1964年(昭和39年)の東京五輪で柔道が正式な種目として採用されたのです。

講道館では100年以上の歴史のなかで、数々の名柔道家が誕生しました。ここでは、草創期を支えた「講道館四天王」をご紹介します。

横山作次郎

横山作次郎」(よこやまさくじろう)は、天神真楊流を学んだのち、1886年(明治19年)に講道館へ入門。体力に優れ、稽古に熱心だったことから入門の翌月には初段に、半年後には二段、1年後には三段と目覚ましい勢いで昇格し、警視庁で柔術を教える立場となりました。また、東京高等師範学校柔道教師として指導者の養成にも尽力。講道館初期から多くの後進を育成した人物です。

西郷四郎

西郷四郎像
西郷四郎像

西郷四郎(旧姓、「志田四郎」[しだしろう])は、1882年(明治15年)に講道館へ入門。翌1883年(明治16年)には講道館で最初の初段に、1889年(明治22年)には五段に特進しています。同年、警視庁武術大会において大技「山嵐」を披露し、その名を馳せました。小説「姿三四郎」のモデルと言われている人物です。稽古に熱心で技術に優れていた西郷四郎は、嘉納治五郎の留守を預かっていましたが、1890年(明治23年)に突然講道館から離れています。講道館を出たあとは、仙台や長崎で柔道、水泳、弓道などの振興にあたっていました。

山下義韶

山下義韶」(やましたよしつぐ)は、1884年(明治17年)に講道館へ入門。嘉納治五郎からの信頼が厚く、講道館幹事にも抜てきされました。「福澤諭吉」(ふくざわゆきち)に招かれて「慶応義塾」(現在の慶應義塾大学東京都港区)で柔道教師を務めるかたわら、海外へ柔道を普及させるべく1903年(明治36年)に渡米。ハーバード大学や海軍兵学校の学生達、アメリカの「セオドア・ルーズベルト」大統領らに柔道を指導しています。その後も講道館指南役、高等師範学校・宮内省警察部・「早稲田大学」(東京都新宿区)・「国士舘大学」(東京都世田谷区)などの柔道教師を歴任しました。

富田常次郎

富田常次郎」(とみたつねじろう)は、1879年(明治12年)に嘉納治五郎の父との縁で上京。嘉納家の書生となったのち、講道館創設と同時に最初の門弟となりました。1906年(明治39年)にアメリカにて海外での柔道普及に努め、帰国後は講道館本館と、溜池(ためいけ:現在の東京都港区北部)の「東京体育クラブ」を拠点に活動。小説「姿三四郎」の筆者である「富田常雄」(とみたつねお)の父でもあります。

柔道と社会

柔道の社会的役割

世界に広がる柔道
世界に広がる柔道

世界的に認知度が高い柔道は、国、人種、宗教、政治、文化などの違いを超えた友好的な社会の現実に大きく貢献してきました。特に柔道は人間教育という観点で多くの人々の共感を集めており、世界中の様々な場所で人々の暮らしに根ざしているのが特徴。嘉納治五郎が掲げた「精力善用」、「自他共栄」は、豊かな社会の実現と世界平和を目指す上で大切な考え方となっています。

柔道がもたらす効果

柔道は技を学ぶだけでなく、技を学ぶなかで人間として成長することを目指しているのです。「武道の稽古は礼に始まり礼に終わる」と言われるように、柔道を学ぶことで礼の精神を身に付け、心身を健康でたくましくし、立派な社会に貢献できる人間を目指しています。

柔道を通じた国際交流

日本は、「柔道の核心は教育にある」という基本理念をもとに、柔道を通じて日本の精神性を様々な国に伝え、文化交流に活用。外国から大勢の研修生を受け入れて柔道の指導者として教育したり、外国への指導者を派遣したりもしているのです。アジアやアフリカなど、十分に柔道を学ぶ環境が整っていない国や地域へ柔道衣や畳を送るなど、普及活動を支援しています。

現代の柔道

現代の柔道競技とルール

柔道の試合場
柔道の試合場

現代の柔道は選手同士が畳の上で1対1の勝負をするスポーツ。競技が行われる場所が「試合場」、そのなかにある最大10m×10mのスペースが「場内」、外側が「場外」です。場内と場外の境界は、畳の色が分けられ区別がしやすいようになっています。

1試合は最大4分ですが、時間内に「一本」(いっぽん)または「反則負け」のいずれかが決まると、その時点で終了。4分が経過した段階で一方の選手に「技あり」があれば、その選手の勝利です。お互いに「技あり」があった場合、時間無制限の延長戦が行われます。なお、延長戦より前に獲得したポイントや指導は継続。先に一本を取る、あるいは反則負けになると勝敗が確定する仕組みです。

なお、柔道の大会では、選手の体重別に以下のような階級が設けられています。

男子 60kg級 66kg級 73kg級 81kg級 90kg級 100kg級 100kg超級
女子 48kg級 52kg級 57kg級 63kg級 70kg級 78kg級 78kg超級

現代の柔道の評価方法

柔道の技のスコアについて、一本を取った選手は即座に勝利となりますが、技ありは2つ取ると一本と同じ扱いです。一本・技ありは、以下のようにルールが定められています。

・投技
投技が決まった際、「相手を制していること」「相手の背が大きく畳に付いていること」「投げに強さがあること」「投げのスピードが速いこと」の4つの条件がしっかりと満たされていた場合は一本。このどれかひとつでも満たしていない場合は技ありとなる。
・抑え込み
抑え込みが開始されてから相手が20秒間逃げられなかった場合は一本。10秒以上20秒未満の場合は技ありとなる。
・絞技、関節技
絞技や関節技などで相手が「参った」をした、または戦闘不能になった場合に一本となる。

また、国際柔道連盟の審判規定によると、過去には「効果」や「有効」というスコアも存在していましたが、2020年(令和2年)に国際ルールが改正となり、現在は採用されていません。

なお、柔道には他の競技と同様に禁止行為があります。例えば、相手からの攻撃をよけ続け自分からは攻撃しないなどの消極的な態度、相手へ危害を及ぼす技や動作、柔道の精神に反する発言などです。それらが軽度であれば「指導」。そして、1試合の間に3回指導を受ける、または禁止行為の度合いが重大だと判断された場合に「反則負け」となります。

現代の柔道で使用する道着

柔道の際に着る道着は「柔道衣」(じゅうどうぎ)と言い、上衣、下穿き(したばき)、帯の3つで構成。日本では長く白色の柔道衣のみが着用されていましたが、対戦の際に判別しやすいという理由で、1997年(平成9年)の国際大会から青色の柔道衣も採用されるようになりました。そのため、近年開催されている世界的な大会では白と青の柔道衣が組み合う姿を見かけることが増えています。

なお、柔道衣の上衣は相手に引っ張られたり、掴まれて押されたりするため、空手着などに比べて生地が厚いです。また、試合の際は上衣が小さすぎたり硬すぎたりして対戦相手に不利な状況が起こらないよう、大会規定で厳密にサイズや素材、縫製の仕方を定めているのが一般的。五輪をはじめとする国際大会では、国際柔道連盟が認定する柔道衣を着用する必要があるのです。

帯の色は、有段者のみ、以下のような全国統一のルールがあります。

帯の色
初段 黒帯
弐段
参段
四段
五段
六段 紅白帯
七段
八段
九段 赤帯
十段

初段未満の級に関しては、特に統一された帯の色はありません。所属している団体によって使用する色が異なっているため、同じ色の帯でも同じ級とは限りません。

柔道の普及と今後の課題

近年では世界中で柔道の競技人口が増えてきており、柔道の競技者がいる国は200ヵ国以上に上ります。なかでも、群を抜いて競技人口が多いのはブラジルです。明治時代の後半に日本からの移民が柔道をブラジル国内で広めたのがきっかけと言われています。多くの学校で教育活動の一環として取り入れられ、地方政府が補助金を出して柔道を学ぶ場所を提供するなど、国として積極的に柔道の普及を推進。そのおかげで、ブラジルでの柔道競技人口は約200万人にまで到達しました。当然ながら、技術のレベルも上がっており、近年ではブラジルの柔道指導者が北米やヨーロッパのナショナルコーチとして赴任しているほどです。

一方、日本の柔道は競技人口が減少傾向にあります。全日本柔道連盟が発表した2021年(令和3年)の個人登録者は12万2,184人で、ブラジルの1/16ほどの人数です。この競技人口には、全日本柔道連盟に登録していない人は含まれていないため、学校の授業で習っている人などはカウントされておらず、実際に柔道をやっている人はもっと多いと考えられますが、それでも少ないと言えます。なかでも小学生の競技人口の変化が著しく、2010年(平成22年)に4万3,709人いた競技人口が、2021年(令和3年)には2万5,636人まで減少しました。

競技人口の減少の理由は、嘉納治五郎が目指した人格形成に重きを置いた柔道ではなく、勝敗を重視したスポーツになってしまったことが原因と考えられています。本来の柔道は、勝負で負けたとしても、自分が成長できたら達成感と自己肯定感が得られ、さらなる成長を目指して心が強くなる武道でした。それが、勝敗ばかり気にするようになると、負けた経験は自己否定と結びつきやすく、選手にとって「つらい」、「楽しくない」という負の感情に繋がってしまうおそれがあるのです。

そこで、全日本柔道連盟では柔道を人間教育の手段として改めて位置づけ、生涯にわたって楽しめるスポーツとして、柔道を多くの人に共有することを今後の課題としています。特に小学生には、勝ち負けだけではなく、柔道の楽しさを教えることを重視。嘉納治五郎の教えはもちろん、人間教育に重点を置いた指導を進めていくことを計画に挙げています。

柔道を通じたスポーツ文化の発展

スポーツは、自分の技術の向上や精神的な成長を感じることで、前向きな気持ちになれるものです。爽快感、達成感、充実感、他者との連携の楽しさなどを得ながら、体を動かして健康的になれます。また、同じ動作を他の人と一緒に行うことで、言語や生活習慣の違いを超えて競い合ったり支え合ったりできるため、生まれた場所や生きてきた社会が違う人同士でも絆を深めることができるのです。

現代において、柔道は日本を代表する武道であると同時に、世界に広く認知されているスポーツ文化。多様性を尊重した国際関係が今後いっそう重視されていくなかで、世界の人々の人間的成長と絆づくりに、柔道は重要な役割を発揮することでしょう。そして、国の違いを超えたスポーツ文化の発展にも大きく寄与する、偉大なスポーツとなっていくと期待できるのです。

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