「野村忠宏」著名な柔道選手インタビュー

野村忠宏

 

史上初アトランタ、シドニー、アテネ五輪(柔道)3連覇を達成した野村忠宏氏。ご自身の子供時代のお話から、試合に勝てなかった苦労時代など話をお伺いしました。

 

野村忠宏が現役引退を発表

のびのびと親しんだ柔道

のびのびと親しんだ柔道

実家のすぐ隣に、祖父が開いた「豊徳館野村柔道場」があったので、3歳の頃には柔道を始めていました。もちろん、当時の記憶はないので「始めていたらしい」というのが正確です(笑)。

野村家は祖父も父も叔父も柔道家で、文字通りの柔道一家です。しかし、祖父や父からは「柔道一家に生まれたのだから強くならなければいけない」とか、「もっと一生懸命練習しろ」と厳しく指導をされることはありませんでした。

そのお陰で、のびのびと柔道に親しむことができたし、「やらされている」という感覚はまったくなかったですね。

道場の畳の上で自由に転がったり、友達や近所のお兄ちゃん達と一緒に楽しく技を掛けあったり、祖父や師範の先生の目を盗んでカンフー遊びをしていた記憶もあります(笑)。

家庭環境からごく自然に柔道を始めましたが、小学校時代は水泳教室に通ったり、少年野球のチームにも入ったりして、決して「柔道一筋」というわけではありませんでした。

五輪王者を生んだ指導方針

五輪王者を生んだ指導方針

実家の道場では小学校卒業まで練習し、いくつかの技の基本と、体が小さかったので、軸になる背負い投げの基本を教わりました。

それよりも、当時厳しく言われたのは礼儀の部分。これは本当に厳しく指導されましたね。実際、試合で勝てなくても「なぜ勝てないんだ」とか、「どうしてあそこで技を掛けなかったんだ」と叱られた記憶はありません。

現在自分も、小学1年生の息子を週に一度、実家の道場に連れて行くのですが、親として祖父や父の教えをすごく大切にしています。

というのは、柔道一家に生まれながら、小学校時代にはプレッシャーを感じることなくのびのびと過ごせたことが、その後の自分にとって本当に良かったと思えるからです。

小学生の大会に行くと、試合会場ですごく厳しい親御さんがいますが、そういう様子を見ると「あの子はのびのびと柔道ができているのだろうか」と、少し胸が痛むこともあります。

自分は柔道選手として「弱い時期」が長かったので、特にそう思ってしまうんですけどね(笑)。

中学からは天理道場に通い始めました。多感な時期にさしかかり、なかなか試合で勝てず悩みもしましたが、柔道が嫌になったり、柔道を辞めたいとは思ったりしたことはありませんでした。

努力が実を結ばなくても、柔道を続けられた大きな原動力のひとつは、幼少期の祖父や父の教えのお陰だと思っています。「しっかりやらんか!」という指導で結果が出なければ、挫折したかもしれませんね。

俺は絶対に強くなれる

俺は絶対に強くなれる

自分は小さな頃から背も小さくてガリガリ。中学校に入ったときは体重が30kg程しかありませんでした。

中学校の軽量級は55kg以下級だったのですが、中学3年生になっても体重は45kg。柔道は1対1の勝負で勝ち負けがはっきりする競技ですし、ましてや中学時代の自分は試合にすらあまり出してもらえない選手だったので、なかなか自信を持つことはできませんでした。

それでも祖父や父からは「どうして強くなれないんだ」というプレッシャーは感じませんでした。今振り返ると、それが自分にとっては有り難かったのかもしれません。

ひとつ上の兄が強い選手だったので、弟の自分に対しては我慢して見守ってくれていたのか、本当にセンスがなくプレッシャーの掛けようがなかったのかは分かりませんけど(笑)、とにかく感謝しています。

だから、結果が出ないことに悩み、柔道を続けることを迷ったときでも、本気で柔道が嫌いになることはなかったんだと思います。

また、小学校までは家庭環境のなかで自然に柔道をしていましたが、自分自身の意志で「柔道で強くなるための稽古をしよう」と思ったのも中学生のときでしたね。

だから、試合で結果が出なくても、自分なりに考えて強くなる努力は続けていました。親の思いではなく、競技者として柔道の道を選択したのは自分自身なのだと、柔道に対する思いを強く持つようになれたことで、厳しい練習にも取り組むことができました。

それに、本当にたまにですが、練習で自分より強い先輩や体の大きな同級生を、3歳から道場で学んできた背負いで投げられることがあったのです。「いつになるかは分からないけれど、この背負い投げを磨き続ければ俺は絶対に強くなれるんだ」と、当時はそれが唯一の心の支えでしたね。

「今は自分の柔道に自信が持てないけれど、辞めてしまうのはもったいない、絶対に強くなるんだ」と、中学時代は努力を続けた先にある未来の自分に期待し続けていましたね。

闘志に火を点けた父の言葉

闘志に火を点けた父の言葉

天理高校に進学は決めていましたが、柔道部への入部には少し迷いがありました。

兄が先に入学していたので練習の厳しさも知っていたし、当時の天理高校では重量級がメイン。中学時代の最高成績が奈良県大会のベスト16、体重も50kgにも満たない自分が「天理でやっていけるのか?」って(笑)。

実際に、父からも「無理して柔道を続けなくても良い」と言われました。もちろん、柔道を辞める気はありませんでしたが、もしかすると、その父の言葉が柔道部入部の決断を後押ししてくれたのかもしれません。

やっぱり悔しかったですからね。「もっと自分を見てほしい、期待してほしい、今に見とれよ」って。

父としては「家庭環境のせいで無理をさせているんじゃないか」と親心というか、優しさというか、そういう思いだったのかもしれませんが、その言葉で自分のなかに火が点きました。

父は兄に対して「人の3倍努力する覚悟で来い。その覚悟がなければ来るな」って言ってましたからね。厳しい言葉だけれど、期待されていることが分かるじゃないですか。「兄貴にはそれで、俺にはこれか」と(笑)。

当時は親以外に自分に期待をしてくれる人もいなかったし、そこに優しさがあるにしても「無理するな」じゃなくて、もっと期待してほしいという思いが強かったので、やはり天理高校に入学する大きなきっかけになったと思います。

五輪代表選手につながった試合

五輪代表選手につながった試合

天理高校で3年間鍛えられ、天理大学に進学。自分の柔道人生で大きな転機になったのはやはり、大学2年生の全日本柔道体重別選手権大会優勝でした。

決勝では当時世界チャンピオンだった園田隆二先輩(現・女子全日本監督)に一本勝ちして、自分自身でも鮮烈なデビューだったと思います。

前年の大学1年時は大学の校内予選で負けて、関西学生柔道体重別選手権大会にも出られませんでしたから。大学2年で初めて出場した関西選手権で準優勝し、そのまま全日本で優勝。

その後のアトランタ五輪(柔道)の代表選出にもつながった非常に思い出深い試合です。初めて出場したアトランタ五輪(柔道)では貴重な経験をたくさんさせてもらいました。

当時は女子に田村亮子選手がいて、男子では小川直也選手、古賀稔彦選手、吉田秀彦選手、中村3兄弟というそうそうたるメンバーが揃っているなか、自分は国際大会の出場・優勝経験こそありましたが、世界柔道選手権大会やアジア大会といった大舞台に出たこともなかったので、自分自身も周囲も驚く大抜擢でした。

正直、当初は合宿に参加しても「本当に自分が代表でいいのだろうか」と不安を感じていましたが、代表メンバーとして合宿を重ねるなかで「柔道のプロフェッショナルが『野村で勝負したい』、『野村なら勝てる』という思いで選んだのだから俺は自信を持っていこう」と、自覚のようなものが芽生えていきましたね。

とは言え現実には、世間から注目もされない存在。個人的な取材を受ける機会もほとんどなく、出発のときに空港に集まった取材メディアのカメラに突き飛ばされたりもしました(笑)。

ただ、それもいい意味で自分の闘志に火を点けてくれましたね。「取材されないのは仕方ないとして、代表の一員である俺を突き飛ばすのはどういうことやねん」と(笑)。

口には出しませんでしたが、心のなかでメラメラと燃え上がるものはありました。

心を強くした3回戦

心を強くした3回戦

アトランタ五輪(柔道)に出たのは大学4年生のとき。その後シドニー、アテネと3大会連続で出場しましたが、当時は「五輪に出られるのは今回が最初で最後。2回目はない」と思っていました。

だから勝つために何でもやろうと、勝負に対する厳しさを持って臨みました。当時の軽量級担当コーチは、大学でも指導して頂いていた細川伸二先生で、先生からは「お前は気持ちが乗っているときはすごい力を出すけれど、思う通りの試合展開にならないと気持ちが切れて、試合を投げ出したような表情を見せるのが悪い癖。そこをもう一度鍛えよう」と言われました。

実際、本番では「最後まで攻め抜く」、「絶対に諦めない」という強い気持ちで試合に臨むことができました。

その成果が出たのが3回戦のニコライ・オジェギン(ロシア)戦。彼は前年度世界柔道選手権の王者で、前評判では自分が不利。組み合って技を掛けられた瞬間に「こいつ、やばいな」と思いましたね(笑)。

技に入るスピードや密着した状況からの瞬間的なパワーが想像以上だったんです。思うように攻められない焦りもあり有効ポイントを2つ取られ、残り時間はあとわずか。

それまでの自分なら、きっと諦めてしまっていたと思いますが、最後まで諦めずがむしゃらに攻めるんだという強い気持ちがあったから、ラスト15秒の逆転につなげることができたのだと思います。

その後は波にも乗って、金メダルまでは勢いでしたね。今もよく話をするんです、「練習はもちろん大切だけれど、本当に強くなれる瞬間は試合のなかにあるんだ」って。

改めて振り返ると、オジェギンとの一戦は、最後まで攻め抜く大事さや、試合を諦めない心の強さについて身を持って学んだ試合でした。

誤解をされているメダルを噛むポーズ

誤解をされているメダルを噛むポーズ

よく「表彰式でメダルを噛むパフォーマンスは野村が始めた」と言われますが、実はあれ、自分が最初じゃないんですよ。

自分自身が初めて見たのは、アトランタ五輪(柔道)で一緒に戦った中村兼三先輩。当時の男子代表メンバーのなかでは、兼三先輩と自分は取材される機会が少なくて、取材に対応されている先輩達の横で「暇ですね」なんて話をしていたんです(笑)。

アトランタでは金メダル候補が次々に負けてしまい、大会5日目の兼三先輩が男子柔道では初めて金メダルを獲得。僕は選手村にある新聞で、兼三先輩がメダルを噛んでいる姿を見て「メダルを噛んでいましたね。僕も優勝したら噛みますね」って話していたんですよ。

で、実際に自分が金メダルを獲ったときにやってみたら、大きく報道されただけで…。だから自分が最初ではないんです。

兼三先輩も「外国人選手の真似をした」と言っていたので、実際に誰が始めたのかは分かりませんね(笑)。

満足感と寂しさの間で

満足感と寂しさの間で

4年後のシドニー五輪(柔道)では、「全試合、違う技で勝って金メダル」と宣言して、その通りに実行することができました。

厳しい戦いになったのは、準決勝で対戦したプロ選手(キューバ)との試合でしたね。彼は前年の世界柔道選手権王者だったんですが、実際に戦ってみて、やはり強いと感じました。勝ち方もギリギリのところだったというのが実感です。

決勝戦はいろいろな流れもあり11秒で勝負が決まり、目標としていた五輪2連覇を無事に達成することができました。

シドニーでは、大会前に「金メダルを獲って競技生活を退く」と宣言していたので、自分自身が満足できる内容と結果を得られたことで「もう十分にやった」という気持ちが強くありました。

ただ、同時に競技者を辞めることへの寂しさも同じくらい強く感じる自分がいたのです。「4年後を目指す」と言葉にするのは簡単ですが、競技者としての4年間というのは本当に、本当に長いんです。

シドニーのあとは本当に、満足感と寂しさの間を行ったり来たりしながら、本当の自分の気持ちが見えませんでした。そこで、自分に答えを出さないまま休養しようと、柔道と距離を取ることにしました。

結果として2年間、ほとんど練習することもありませんでしたね。そして、じっくり時間を掛けて自分と向き合うなかで強くなっていたのは、「今しかできないこと、自分にしかできないことをするべきだ」という思いでした。

当時、軽量級の2連覇は自分しか成し遂げていなかったわけで、3連覇を目指すことの意味についても考えました。将来、指導者になるための準備をするという選択肢もありましたが、もう一度、自分自身が燃えるような熱い生活は、今しかできないんだと思い、アテネを目指すことにしたのです。

アテネまでの険しい道のり

アテネまでの険しい道のり

現役続行を決断し、アテネで3連覇を目指すことを決めてからは、本当に中身の濃い2年間でした。

年齢も30歳が目の前でしたから、疲労の溜まり具合や抜け具合が以前とは違うし、怪我も増えました。

2年のブランクを埋めるためには、いろいろなものと戦わなければならなかったですね。それは並大抵のことではなかったし、想像以上に大変でした。自分の予想に反して、試合でもなかなか結果を出せないこともありました。

当然、「3連覇を目指すなんてかっこいいこと言いながら勝てないじゃないか」という評価もされたし、シドニーで引退していれば良かったのにという目で見られることもありました。自分としても頑張っても頑張っても勝てなくて、だんだん惨めに思えてきて・・・。

正直、アテネを目指すなかで、柔道人生で初めて「もう柔道を辞めたい」と思ったことがありましたから。「3連覇を目指すなんて言わなければ良かったな」って。

それでもアテネ五輪(柔道)本番は、3回出場したなかで最も危なげない戦いで金メダルを獲れた大会でしたね。自分で言うのも変ですが「圧勝」でした。いろいろな困難を乗り越えた末に掴んだ3連覇だっただけに、充実感も大きかったです。

2年間の道のりは辛いことも多かったけれど、「自分自身と真剣に向き合ってきて良かった」と心から思いました。決して大袈裟な表現ではなく、アテネまでの2年間は自分の競技観や人生観を大きく変える濃密な時間になりました。

ただ単に強くなるだけではなく、金メダルを獲るんだというだけでもなかった、あのときの経験があるからこそ、今もこうして現役を続けていられるのだろうと思います。実際、3連覇のあとには現役を退くという感覚はありませんでしたからね。

周りは「年齢のこともあるし、柔道の世界ではたった一人だけの3連覇を達成したんだからもう十分だろ」って感じでしたけど(笑)。

柔道人生のすべてが財産

柔道人生のすべてが財産

アテネまでの厳しい道のりを経験して、もちろん競技者として勝負に対する厳しさに変わりはありませんが、そこにプラスアルファとして、競技との向き合い方や考え方、限りある競技者生命のなかで現役を続けることの意味とか、そういう部分に対する思いがすごく強くなりました。

よく「柔道を続けてきて良かったことは何ですか」と聞かれます。五輪王者にもなったし、選手としていつ終わりを迎えてもおかしくない年齢になった今でも、自分のなかに熱い思いを持って学生達と一緒に稽古ができている。「柔道をやって良かったな」と現在進行形で思えていることが、一番幸せじゃないかと思うんですよ。

競技人生には良いときも悪いときもあるけれど、そのときにどう柔道と向き合ったか、どんな取り組みをしたか、どういう思いで過ごしてきたか、そのすべてが自分の経験や財産になります。

自分はそれこそ山あり谷ありの柔道人生で、でっかい山も掴んだし、でっかい谷も経験しました。きっと、成功だけの人生よりはずっと面白いと思うんですよ。

それに、自分には将来、指導者になるという強い思いがあるので、自分が経験してきたことはそのときに必ず活かせると思うんです。だからこそ、現役時代に経験できることは全部してやろうという気持ちでいます。

あきらめずに努力し続けること

あきらめずに努力し続けること

今この内容を読んでくれた子供達が、「小さな頃は野村も弱かったんだ」とか、「あきらめずに努力を続けたからこそチャンピオンになれたんだ」とか、僕の柔道人生から「何か」を感じ取ってくれると嬉しいですね。今勝てなくてもあきらめずに努力をし続けることが大事だと思います。

ただ、これは子供達に対しては厳しい言葉になるかもしれませんが、目指すものによっては叶わない夢もあるかもしれないし、努力したからといって夢は絶対に叶うと断言はできません。

自分も北京・ロンドン五輪(柔道)出場という夢を叶えることはできませんでしたから。それでも、夢や目標を掴むためには、行動を起こさなければ始まらないし、やり続けなければ実現することはできないです。

子供達には、スポーツ、遊び、勉強などのなかで、いろいろなことを経験して、人生を掛けて努力したいと思えるものに出会ってほしいです。

もちろん、それが柔道であれば、より嬉しいですね。

 

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