山下泰裕
オリンピックを目指して

私が「オリンピック」を意識したのは、ミュンヘンオリンピック(1972年)が開催された、中学3年のときだったと思います。
入学をした藤園中学校が全国大会で優勝する強い学校だったこともあり、柔道に自信がつき、いつの日か、あの舞台で戦ってみたいなと思っていました。
具体的な目標となったのは、高校2年のとき。熊本から神奈川の東海大相模高校に入り、全日本の代表選考メンバーに選ばれてからでしたね。
大学2年のときに開催されたモントリオールオリンピック(1976年)は補欠。4年後のモスクワオリンピック(1980年)では、代表に選出されたものの、日本のボイコットにより不出場。そして、三度目の挑戦となるロサンゼルスオリンピック(1984年)で、初めてオリンピックの舞台に立つことができました。
三度目の挑戦で、中学のときからの夢がようやく叶いましたね。
憧れの舞台での怪我

年齢的にも自分は、これが最後のオリンピックになるだろうと思っていたので、やり残すことなく、やり尽くそうという気持ちで挑みました。
ですが、ご存知のように、この大会で右ふくらはぎに肉離れを起こしてしまったのです。二回戦で自分から内股を仕掛けたときでした。その瞬間思ったことは、「しまった」ということと、この怪我を相手に知られてはいけないということでした。
不思議なもので、試合中は気持ちが昂ぶっているし、試合に集中しているから、痛みを感じることはありませんでした。しかし、ひとつ試合が終わると、軸足だったので、ものすごい痛みでしたね。
自分の得意とする大外刈も大内刈も、踏ん張りが利かないので掛けることができません。どうやったら勝てる可能性があるのか、正直なところ、まったく頭に浮かびませんでした。そんなことは、もちろん初めての経験でした。
だからと言って、悲観しても仕方がないので、とにかく前向きに考えましたね。「胸を張って、痛い顔は絶対にしない」、「どこでどう来るのかは分からないが、絶対にチャンスは巡ってくる」、そう信じて決勝に臨みました。
決勝戦の相手は、エジプトのラシュワン。控え席に座って目を閉じていると、ラシュワンが近づいてくるのが分かりましたし、自分の後ろでウォーミングアップをしている彼から、気合が溢れているのも感じていました。「絶対に勝つ」という意気込みも伝わってきましたし、自信満々でしたね。
試合は、ラシュワンが掛けた技をすかして、捌いて横四方固に抑えて勝ちましたが、皆さんが見て感じたよりも、ずっと必死でしたよ。
選手に向けてのメッセージ

オリンピックが他の大会と違うのは、やはり「注目度」です。その盛り上がりはというのは、本当に凄いと思います。
周りの期待も他の大会とは、比較にならないくらい大きいです。だからこそ、やりがいがあるのです。
ロンドンオリンピック代表の最終選考会はこれからですが、チャンスのある選手は全力を出し切ってほしいですね。そして、代表になった選手は、オリンピック当日だけでなく、それに向けて一日一日を輝いて生きてほしいです。
オリンピックは、自分のすべてを懸けて戦うに、相応しい舞台だと、私は思います。
インタビュー:2012年4月

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