オリンピックを東京で

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29年もの間IOC(国際オリンピック委員会)の委員を務めていた嘉納治五郎。治五郎は困難な状況でありながらも、日本のスポーツ発展・普及のために、オリンピックの東京招致という大役を全うしました。オリンピックへの初出場後、東京オリンピック招致成功までの歩みをご紹介致します。

選手達の活躍

選手達の活躍

オリンピックに対する日本国民の関心が高まるにつれ日本は徐々に選手数を増やし、メダルを獲れる程の実力を発揮できるようになっていきます。

ベルリン大会の二百メートル平泳ぎで女子初の金メダルを獲得したとき、「前畑がんばれ!」と日本国民の血をわかしたアナウンサーの名放送は、今でも語り継がれています。また、棒高跳びで2、3位に入った二人がお互いの銀と銅メダルを繋ぎ合わせて作った「友情のメダル」のエピソードもこの大会で生まれました。

このような選手達の活躍によって、国民はオリンピックを楽しみにするようになり、オリンピックを東京で開催したいという声も大きくなります。 このような中にあって、東京市会(現:東京都議会)が東京オリンピック開催の議案を可決し、治五郎らはIOCでのオリンピック招致活動の大役を託されることになったのです。

世界情勢の悪化

世界情勢の悪化

数多くの開催地候補から東京が選ばれることは、至難の業でした。と言うのも世界情勢の中で日本は、満州事変をきっかけに国際連盟を脱退し、さらにワシントン条約を破棄した上に、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア五ヵ国の海軍軍縮会議を脱退するなど、東京にオリンピックを招くには最悪の情勢だったのです。

しかし、29年の間IOC委員として数々の功績を収めた治五郎とJOC(日本オリンピック委員会)の説得によって、東京での開催が一応決定され、あとはエジプトのカイロで開かれるIOC総会で開催決定が議決されるまでに招致活動は進みます。

ところが、日本を取り巻く世界情勢は日増しに悪化し、日中戦争が始まるなど、日本での東京オリンピック開催準備は一向に整いませんでした。

東京オリンピック開催決定

東京オリンピック開催決定

IOCでは東京開催に反対する国々が増え、日本国内でもスポーツに金をかけるよりも軍備が優先だとして、東京開催を返上する意見も聞かれるようになります。

既に79歳となった治五郎は、窮地にありながらも平和の祭典であるオリンピックに対する愛情と東京への招致を果たすという大役を全うする一念で、1938年(昭和13年)難局が必至のIOC総会が開かれるカイロへ向かいました。

そして会議での長い討論の末、ついに東京でのオリンピック開催が決定されます。IOCの中で最長老となっていた治五郎の人柄が、各国の委員達の心を動かしたのです。

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オリンピックに初参加したあと、徐々に出場選手を増やしていった日本。オリンピックに対する国民の関心が高まり、「東京でも開催を!」という声も大きくなっていきます。しかし、東京でのオリンピック開催は、世界情勢の悪化等から困難と言われていました。そのような状況下でありながら、嘉納治五郎は国民の希望を叶えるため、また日本のスポーツ発展のために招致活動に貢献し、見事東京でのオリンピック招致に成功することとなったのです。こちらのページでは、オリンピックの東京招致までの歩みや治五郎のオリンピック招致にかかわる活動等をご紹介。東京オリンピック招致活動の歩みと招致の大役を託され、見事に使命を全うした治五郎についてまとめましたので、ぜひご覧下さい。柔道チャンネルは、柔道を志すすべての方を応援致します。

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