「薪谷翠」著名な柔道家インタビュー

薪谷翠 全日本柔道連盟女子シニアコーチ

現在、ミキハウスの柔道部と、全日本女子シニア強化選手の育成に取り組んでいる薪谷 翠コーチ。
ご自身が現役のときに負った大怪我、そして奇跡の復活と金メダル獲得、そんな波乱万丈の柔道人生を中心にお話を伺いました。

薪谷翠氏

プロフィール

  • 生年月日:1980年8月15日 出身地:和歌山県 身長:163cm
  • 主な戦歴

    • 1997年 |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg超級 3位
      1999年 |
      福岡国際女子柔道選手権1月大会 78kg超級 3位 無差別級 2位
       |
      福岡国際女子柔道選手権12月大会 無差別級 優勝
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg超級 2位
      2000年 |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg超級 3位
      2001年 |
      世界柔道選手権大会(ドイツ:ミュンヘン) 78kg超級 2位
       |
      皇后盃全日本女子柔道選手権大会 優勝
      アジア柔道選手権大会 無差別級 優勝
       |
      福岡国際女子柔道選手権大会 78kg超級 2位 無差別級 優勝
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg超級 優勝
      2002年 |
      フランス国際柔道大会 78kg超級 優勝
      皇后盃全日本女子柔道選手権大会 2位
       |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg超級 優勝
      2004年 |
      アメリカ国際柔道大会 78kg超級 優勝
       |
      皇后盃全日本女子柔道選手権大会 2位
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg超級 2位
       |
      福岡国際女子柔道選手権大会 78kg超級 2位 無差別級 2位
      2005年 |
      世界柔道選手権大会(エジプト:カイロ) 無差別級 優勝
       |
      皇后盃全日本女子柔道選手権大会 2位
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg超級 2位
      2006年 |
      福岡国際女子柔道選手権大会 78kg超級 3位 無差別級 優勝
      2007年 |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg超級 2位
      2008年 |
      皇后盃全日本女子柔道選手権大会 2位

スカウトと父親からの勧めで始めた柔道

薪谷翠氏柔道を始めたのは、地元(和歌山)の道場の先生からのスカウトがきっかけです。小学生のときから、いい体型をしていたので(笑)、由良少年柔道教室の藤本先生が、「ぜひ、柔道をやらないか」と声をかけて下さいました。

私としては近所のお兄さんが甲子園に出場した影響があり、野球が好きだったので、地元の少年野球チームに入団をお願いしたんですが、女子はダメだと断られたんです。

当初は「柔道」という競技を知らなかったのですが、警察官だった父の勧めで、小学3年生から道場に通うようになりました。

本当は優しい父親

小学生時代の柔道の思い出と言えば、何といっても父が厳しかったことですね。とにかくスパルタでした。年上だろうが格上だろうが、どんな相手との試合でも、投げられると父にしばかれるので、毎日びびりながら練習をしていました。

今は笑って話せますけど、当時は、練習に行くことも強制的で嫌でしたし、殴られるのはもっと嫌でした。だから、練習をサボろうとして風邪を引いたふりとか体調が悪いふりをして、父をごまかそうとも試みましたね。子供の頃って誰でもそんな経験ありますよね?

でも、低い声で「練習行かへんのか?」って聞かれると、その一言が怖くて「あ、行きます」って、仮病もあっさり終了でした(笑)。また、見てないだろうと思ってちょっと手を抜くと、実はしっかり見られていて、バチーンと張り手が飛んでくるとか、そんなこともありました。

それでも、試合に勝つと、私自身も柔道が楽しくなってくるし、勝ちたいと思うようになり、練習もやる気が出て頑張れましたね。父も練習もすごく厳しかったんですけど、辞めたいと思ったことはありませんでした。

父の厳しさに対しては、今ではちゃんと感謝できますが、当時はやっぱり厳しすぎて、中学に入ったら親元から離れる予定でしたので、小学生のうちは我慢しようと思っていました。

そんな父も厳しかったのは柔道のときだけで、他のときは優しかったですよ。でもずっと柔道漬けの毎日だったので、結局は大体いつも厳しかったってことですけどね(笑)。

練習熱心だった父親と、柔道漬けの毎日

薪谷翠氏父は、自宅にも柔道の練習をするために畳を4畳分買ってくれたので、道場で稽古のない日には、近所に住む道場仲間を捕まえて、打込みの練習などを自宅でやっていました。柔道に対して本当に一生懸命に尽くしてくれましたね。

また父の勧めで、寝技強化のためにレスリングも始めました。それで全国大会にも出場して日本一になれたのですが、それはレスリングの成果ではなく、柔道の技を使って勝ったようなものでした。

結局、柔道の強化にはならないと判断し、レスリングは2年弱で辞めてしまいましたね。やはり、基本は柔道一本ということです。

柔道のために4度の転校

中学生になって、初めの頃には大阪に住む祖母の家でお世話になり、そこから兵庫県西宮市の夙川(しゅくがわ)学院中学校に通うことになりました。夙川学院は柔道でも名門と言われる女子校です。

しかし、それまでの練習相手が、ほとんど男子だったこともあり、体格的にも力でも格上の相手と組み合って練習してきたので、技術的にレベルが同じくらいの相手だと、乱取りで投げられることが少なかったんです。もっと上のレベルを目指すには、この環境で大丈夫かと父は不安になったようで、数ヵ月のうちに転校先を見つけてきました。

そして、実家から通える和歌山県立箕島中学校に移りました。そこでは柔道部員も多く、練習については十分だったのですが、自宅から遠く、通学時間が長くかかっていました。そしてある日、通学中に怪我をしてしまったんです。

すると父の「怪我したら練習できないし、道中で怪我をするくらいなら通う必要ないやろ」との一言で、もっと自宅近くの那賀町立那賀中学校に転校が決定。

そして中学3年生になると、国体に向けて柔道部の強化中だった大阪工業大学高校(現・常翔学園高等学校)からのお誘いもあり、入学が決まっていましたので、入学前から出稽古に通えるよう、近くの大阪市立大宮中学校に4度目の転校をしました。柔道のためとは言え、やっと打ち解けて慣れてきたと思ったら、すぐ転校だったので大変でした。

もともと人見知りの性格なので、転校するのは辛かったですね。割と気さくに誰とでも話せるタイプに見られるのですが、実は人に話しかけるのは、昔も今もすごく苦手です(笑)。 喋りかけてもらうと、安心して話せてすぐ仲良くなれるんですが、自分から積極的に話せないタイプなので大変です。

だから、転校直後は毎回緊張するんですが、一度打ち解けることができればたくさん喋るので、今でも連絡を取り合っている仲の良い友達も居ます。ですので、私の場合は、転校は悪いことだけではなかったと思います。

最初の怪我

薪谷翠氏 中学2年生のとき、道場での稽古中、右膝の後ろから練習相手だった男の子の全体重がかかってきて、あっという間に前十字靭帯が断裂して、足がパンパンに腫れ上がりました。

これが最初の大怪我ですね。その直後に全国中学生柔道大会があったんですけど、怪我をかばいつつなんとか2連覇できました。

その翌年の同大会では、決勝で手島知佳選手に敗れてしまって3連覇が果たせませんでした。そのときは自分なりに、負けた悔しさはありましたが、父にものすごく怒られましたので、ますます忘れられない試合となりましたね(笑)。

柔道に対する転換期

高校は工業高校だったので、クラスメイトのうち40名が男子で、女子は4名だけでした。もともと練習も男子と一緒ですし、男女の区別がなくみんなでふざけ合って遊びましたね(笑)。それまでがかなり柔道漬けだったので、高校時代は本当に学生生活を満喫しました。楽しい思い出しかありませんね。

一方、柔道では私の気持ちにちょっとした転換期がやってきました。小学生の頃は、ただ勝つと嬉しいから練習して、そして試合に臨む。そこで練習してきた成果を結果として試合で出す。負けると父に怒られるし…。

中学生の頃も1戦ずつ勝っていって、優勝するのが当たり前といった、そんな一連の流れで柔道を続けていたように思います。ライバル視をしていた特定選手もいなくて、「あの相手を絶対倒す」といった気合いも薄く、勝負に対する執着心が強くなかったと思います。

それが、高校3年生の11月「全日本女子柔道体重別選手権大会」(現「講道館杯」)に優勝したとき、「もっと頑張ったら、日本代表選手になれるかも」と思い始めたんです。

それからは、柔道に対する気持ちがかなり強くなっていきました。勝つことの重みや、勝負の世界について強く意識し出したのもこのときからです。そして、吉村(和郎)先生(当時・全日本女子監督、現在・全日本強化委員長)との出会いもこの頃でした。

先生の最初の印象はすごく恐くて、顔も強面だし(笑)、練習も厳しかったですからね。でも、話すとすごく優しくて、愛情豊かな先生でしたので、強くなって先生に認められたいと思いました。

アジア柔道選手権大会での大怪我

薪谷翠氏 中学時代の怪我はほぼ完治していましたが、高校では左の前十字靭帯を断裂してしまいました。

そして、筑波大学4年のときのアジア柔道選手権大会(2002年/韓国・釜山)(以下、アジア大会)では、試合中に、またもや右膝の前十字と側副靭帯を断裂。

靭帯断裂は何度も経験しているので、アジア大会のときは、投げられた瞬間に、ブチブチブチッという音で「あ、靭帯切れたな」と分かりました。その一瞬のうちに「また一年棒に振ってしまうな」とか、「就職先(の印象は)大丈夫かな?」とか、「でも、前十字靭帯断裂なら一年で治るだろうな」というようなことまで、いろんなことが頭に浮かびましたね。

それでふと我に返って、足を見ると胴衣に血が付いているのが見えて、「なんで血が付いてんねやろ?」と、ぼんやりと思った瞬間に「すぐ手術や!」という声が聞こえて、「ひゃ〜」って頭の中で絶叫しました。

確かに、このときの怪我は今までよりも損傷がひどくて、手術が終わってから吉村(和郎)先生に向かって「柔道するのが恐い」「もう柔道やめたい」と弱音を吐いたらしいです。自分では、覚えていないのですが(笑)。

そんな私に、先生は「来年の世界柔道選手権大会に出場させるから、必ず戻ってこい」と言葉をかけて下さり、「よし、頑張るぞ」と、思いました。

周囲の支えと復帰の決意

「頑張るぞ」と思ってはいても、このときの怪我は想像以上にひどくて、半年間膝が曲げられませんでした。JISS(国立科学スポーツセンター)でのリハビリ中には、萎えてしまう日も多かったですね。世界柔道選手権大会に出場したい気持ちもあるんですが、なかなか闘志につながらなくて…。

例えば、夜寝てる間に、夢の中では自分が正座ができているのに、朝起きると「やっぱりまだ膝曲がらへん」って現実に、がっくり落ち込むような日々。落胆ばかりして、頑張ろうっていう意欲も盛り上がってこない中で、気持ちも相当へこんでいました。

そんな折、吉村(和郎)先生がセンターまでわざわざ出向いて下さいました。そのときに先生から「(柔道を)やるのかやらんのか」と問われて、「やれるものなら、やりたいです」と答えると、「そういう気持ちだからいかんのやろ!」「やると思ってやらないと、できるもんもできないんじゃ!」「世界柔道選手権大会、出るんか出ないんか!」「白か黒かハッキリせい!」とハッパをかけられたんです。

でもまだ自分に迷いがある状態なので「やりたい気持ちはやまやまやけども…」「そんなん言われてもできひんし…」と、うじうじ思っていました。けれど、古賀(稔彦)さんや吉田(秀彦)さんの(バルセロナオリンピック直前練習中の怪我と精神力で獲った金メダル)話を聞いたりするうちに、ようやく「やります」と返事ができるようになりました。

その決断を後押ししてくれたのは、周りの方々のサポートの力ですね。「気持ちを強く持つように」と、日蔭(暢年)先生や塚田(真希)選手など、いろいろな方から励ましの電話や手紙を頂いて、本当に支えられました。

現在所属しているミキハウスは、小学生の頃から合宿に参加させて頂いていた縁のある会社です。そして大学時代に参加した合宿で、柔道部監督の日蔭先生の指導を受けて、もっとこの先生から習いたいとの思いから入社を切望していました。

当時怪我をした状態で入社させてもらえた、社長の配慮も大変ありがたく、治療の費用面でもサポートをして下さいました。今でも本当に感謝しています。そういう自分を取り巻く状況に、「自分は本当に恵まれているんだな」と気づくことができました。

この頃ようやく「絶対復活して、みなさんに恩返しがしたい」と強く思えるようになりましたね。だからアジア柔道選手権大会は、「負けた」「怪我した」だけでなく、すべての転機になった忘れられない試合ですね。おかげで人間的にも大きくなれたと思います。

復帰の喜びと、恩返しの金メダル

薪谷翠氏怪我から1年後の2003年の世界柔道選手権大会(大阪)では、初戦敗退でしたからもちろん悔しかったです。

しかし、それ以上に「この畳の上に帰って来られた」という喜びの方が大きかったですね。「これからまだやれる」っていう、自分の柔道に対する意気込みが戻ってきた実感があり、負けたことに対する焦りは感じませんでした。

もちろん、怪我の間にひとつ年下の塚田(真希)選手が、力をつけて活躍していましたので、良きライバルとして意識はしていました。その彼女の存在が、奮起の材料として私にとってはありがたかったですね。

そして、2005年の世界柔道選手権大会(カイロ)では、試合前に「この畳に上がれたチャンスを無駄にしてはあかん!」「何のために今この畳に立ってるんや!」「ここで勝たんと、みんなに恩返しができないぞ!」と、自分自身に何度も何度も言い聞かせて臨みました。助けて頂いた周囲の方々への、言葉では言い表せないくらいの感謝の気持ちでいっぱいで、「必ず優勝して、絶対恩返しする」と、本当にその一心だけでしたね。

金メダルが決まったときには、強化副委員長として帯同していた吉村(和郎)先生も「良かったな」とバーンと背中を叩きながら、泣いて喜んで下さいました。相当涙もろい方なんですよね(笑)。本当に優勝できたこと、みんなに恩返しを表せたことが、なによりも嬉しかったです。

やはり頂点を目指している以上は、オリンピックに出たかったですね。周りの方から見れば、あれだけの怪我をしたにもかかわらず、世界チャンピオンにもなれたし、これで終わりだろうと思っていたみたいですけど、私としては、オリンピックへの思いも強く、もう一度挑戦したかったです。

けれど、長期に渡って目指し続けるのも嫌だったので、2008年の北京オリンピックに行けなければ引退、もし行けるなら最高の試合で終わりたいと、カイロ大会に臨む前から決意していました。だからこそ、カイロ大会では全身全霊で臨めたんだと思います。

ライバルで仲良しの塚田選手

今の自分があるのは、塚田(真希)選手のおかげだと思います。プライベートでも大学時代から仲良しで、ショッピングにもよく一緒に行きます。

そういうときには、柔道の話は一切しませんね。「いつ買物行く?」とか、空き時間にはデパートへ大きいサイズの服売り場へ行ったりして(笑)、センスがいい塚田選手には、よく服を選んでもらうんです。でも一番多いのはやはり「何食べる?」って、食べ物の話ですね(笑)。

昔から自然とお互いに、勝負は勝負として割り切っていました。一方柔道では、彼女が頑張ってくれるから、「私も頑張らなきゃ!」「私もまだいける!」という励みになっていました。お互いが切磋琢磨して、良い刺激を与えながら成長できたいい関係です。

今後もライバル関係を続けお互いに指導者として、教え子同士の対決も楽しみですね(笑)。

世界柔道選手権大会での杉本美香選手の「金」

薪谷翠氏 全日本女子シニアコーチとして、2010年の世界柔道選手権大会(東京)では、杉本(美香)選手(78kg超級と無差別級)のセコンドにつきました。

初日(78kg超級)の杉本選手は完璧と言える程の試合内容でしたね。外国人選手達は、塚田(真希)選手を注目していましたので、杉本選手に対してはノーマークだったため、あそこまで勢いよく勝ち進めたのだと思います。

初日にチャンピオンになってしまったせいで、5日後の無差別級では、外国人選手達も杉本対策をしっかりしていました。やはり、どの国も一流の選手と監督陣なので、即研究して対応策を練ってきます。

無差別級での試合では、技が簡単には決まらず、それに加えて、重量級選手にとっては、2階級出場は体力的にもキツいので、疲れも出てきました。

そしてなによりも、チャンピオンになったという事実が、2階級制覇の義務感や欲として、精神面での重荷になってしまった感じを受けました。攻めより守りに傾いてしまって、最終日(無差別級)の試合内容は、初日に比べると悪かったと思います。

やはり、強くなればなった分だけ、優勝するということは簡単なことじゃなくなるんです。実績を積めば積む程、勝つことが難しくなるんです。

コーチとしての未熟さと理想のコーチ像

今回の世界柔道選手権大会での初セコンドで、自分のコーチとしての未熟さを痛感しました。
現役時代は自分のことしか考えてなかったし、自分の階級のことしか分かっていませんでした。今でも重量級以外の外国人選手、特に3位以下の選手となると名前すら覚えきれなくて、ましてや選手の癖や得意技など、まだまだ対策を指示できる状態ではありませんでした。

ただ、コーチになって多少余裕ができたので、少し周りを見れるようになった気がします。「こういう相手にはこんな技も有効だろう」とか、以前より柔軟に考えることができ、柔道に対しての視野は広くなったように感じます。
技術的な試合運びや、試合での選手の心理状態についても、現役選手よりは分かると思いますしね。

まだまだ完璧とは言えませんが、その点、園田(隆二)監督の的確な指示やアドバイスは、本当にすごいと感心します。自分には足りない所がたくさんあって、もっと勉強しなければいけません。まだ今の所は、口で上手く説明できない分、「こういうときにはこうするといいよ」と、体を使って伝えていきたいと思います。

今は選手に対して、「自分に甘えるな」「よく考えて、頭を使え」とよく注意しています。勝負の世界は甘くないので、厳しく指導できるように努めていきたいと思っています。だから、私も言いたくないことでも、悪い点は注意しますし、ズバズバと指摘しています。

吉村(和郎)先生はそういった飴とムチの使い分けが、本当に上手なんですよ。悩んでいるときに、ふっと声をかけて下さったり、見てないようでちゃんと気にかけてくれている所が絶妙なんです。

私のコーチの理想像は、吉村先生と園田監督、日蔭(暢年)先生の3人のいい所取りした感じですね。まだまだ理想にはほど遠いですけど…。あくまで理想ですから(笑)。

自然体で柔道の本質を伝えるということ

やはり怪我をしたときの心理状態は、十分に分かっていると思うので、選手の心のケアやメンテナンスに対しては、経験をもとに丁寧にアドバイスができるといいなと思っています。

私が柔道をしてきて一番良かったことは、怪我をしたことだと思います。いろんな人に出会えたことも、たくさんの人に支えられたことも、怪我をしたおかげで実感できましたし、自分中心の考えでなく、人に感謝する気持ちも覚えました。

怪我がなければ、これ程の思いは芽生えなかったかもしれません。結局、私が柔道を続けられるのも、周りのみんなのおかげです。人と人とのつながりの大事さ、まさに「精力善用」「自他共栄」の柔道の教えそのものですね。そうしたことすべてを「自然体」で、教え子達に伝えていけたらいいなと思います。

今の時代の子供達と、感覚や物事の受け取り方が違うこともあるから、どう伝えるかなど勉強も必要ですが、何に対してもぶれない毅然とした態度で、私の経験したありのままを役立てて、持っているものはすべて伝えていきたいと思っています。

※2010年8月現在


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