著名な柔道家インタビュー

斎藤仁 全日本強化副委員長インタビューその3

北京五輪(柔道)終了後に全日本男子監督を退き、全日本強化副委員長に就任した斎藤仁氏。

アテネ、北京両五輪では苦戦を強いられ続けた。その監督時代のお話しとともに、現役時代、特にライバル山下泰裕氏との激闘について伺ってみました。

斎藤仁氏

代表辞退まで考えたソウル

選手にとって、終わるタイミング、引き際というのは大事な問題です。本当のことを言うと、引退したとき、俺もまだやりたかった。全日本選手権も初優勝したから、次の年は出場権があったし。出たかったんだけど、五輪が終わってから2回ヒザの手術をして。やっぱり現役時代から「100%稽古できないヤツは、試合に出る資格がない。100%燃えきれないヤツは、相手と戦う資格がない」という、そういう気持ちでずっとやってきましたから。それで、五輪の翌年、引退を決めたわけです。
ソウル五輪(柔道)の代表になったときも、代表のメンバーと同じメニューが全然できなくて、「俺は五輪に本当に出ていいのかな?」と悩んだ。辞退したほうがいいんじゃないかって。これは自分に嘘をつくことになると思ったんです。
でも、そんなときに日本体育協会、当時はJOCがまだないから、日本体育協会から「日本選手団全体のキャプテンを斎藤選手にお願いしたい」という依頼が来た。「先生、やらなきゃいけないですか?勘弁して下さい。自分の柔道の試合で精一杯です」って言ったんだけど、「いいからやれ!」の一言で終わり(笑)。でも、それで「やるしかない」という気持ちになったんですよね。

伝説の「山下VS斎藤」最後の試合

山下先輩とは何度も試合しましたが、最後の試合(昭和60年の全日本選手権決勝)のことは今でも話題になったりしますけど、審判が何もとらなかったということは、あれはポイントでもなんでもないんですよね、やっぱり。もしあれがポイントだったら「技あり」か「一本」だったと思います。だって、倒した俺が一番びっくりしましたから(笑)。

斎藤仁氏それまでの戦いの中で、山下先輩のあるクセに気づいて、それを返せばいいのかなと思って秘密特訓をやっていたんです。その成果かどうかはわからないけど、山下先輩との試合のときにその瞬間を待っていた。それで「来たっ!」と思って前にガーンと出て、足が掛かんないなと思ったら、ドーンと倒れていた。驚いたのは俺だよ(笑)。その後、山下先輩の怒濤の攻撃が来て、「うわ〜、これじゃいかん。俺も攻めなきゃいかん、攻めなきゃいかん」と思って、1歩、くっと出した瞬間に足がポーンとくる。くっと出したときに足と、先に技を掛けられる。あれは、山下先輩が本当にうまかった。俺は「やられた」と思いましたよ。
それは「間」なんだよね。「斎藤が勝ちを意識して守りに入った」とか「逃げた」とか言われたけど、決してそんなことはない。山下先輩と戦って、守りに入ったら勝てるはずないのはわかっていたし、「攻めなきゃいかん、攻め通さなきゃいかん」と思って戦っていたのは間違いない。でも、山下先輩はそれまでの「一本」を取る、技で投げる柔道から、掛け捨てに変えてきたから、作戦を。それにはまっちゃった。

「ポスト山下」から「国士舘の斎藤」に

山下先輩と初めて対戦したのは、俺が大学1年生のときで、山下先輩4年生のとき。俺がたまたま決勝戦までいったんだよね。で、山下先輩の技をたまたま返したんだよ、ポイントにはならなかったけど。そしたら次の日の新聞で負けた俺が1面よ。『山下二世現る』とか、『ポスト山下、斎藤!』ときたわけ。それからだよ、「俺は山下先輩の二世なんだ」「ポスト山下なんだ」と思うようになったの。ということは、山下さん以外には負けられないと。そこからのスタートだったんだよね。それから頑張るしかない、やるしかないって。心地よかったんだよ『ポスト山下』って。ところが実力がついてきて、他の選手に負けなくなってきたときに、なんで俺はいつまでも『ポスト山下』とか『山下二世』なんだって。「俺は国士舘の斎藤だ」という気持ちが出てきた。だいたいよく考えたら、山下さん以外に負けられないと思っているうちは、山下先輩に勝てるはずがないんだよね。それで、これじゃいかんという気持ちになった。

斎藤仁氏山下先輩との試合では、投げられないでチャンスを活かそうと思ったけど、そのチャンスが出てこない。投げられないということは防御の間合いということ。山下先輩は常に投げようという攻めの間合いで、俺は防御の間合い。攻めの間合いにはどうしてもなれなかった。それが最後の最後に自分の攻撃の間合いになれた。それが、最後の試合だった。なんかそれが嬉しくて嬉しくて。山下先輩も面と向かっては言わないけど、いろんなところで言っていたらしいんだよね、「斎藤が組んでいるときに笑った」って。今だから言うけど、俺、実際に笑ったんですよ、にやっと。嬉しくて。自分の攻撃の間合いになって「おー、攻めれるじゃん!」って。そこから、大内刈とか大外刈とかバツンバツン掛けていったんだよね、前半。それで、それまでは攻撃の間合いでしかこなかった山下先輩がちょっと防御の間合いになった。そしたらまた入れなくなったわけよ。それでしょうがないから、奥襟を切って、「大外来い、大外来い」って誘った。で、大外刈がきたと思って、奥襟をたぐって、ビュンって入ったんだけど、それが支釣込足だっただけなんだ。作戦通りなんだよ、あの瞬間は本当に嬉しかったですね。
結局は1回も勝てなかったけど、山下先輩を追いつき追い越せという目標にできたことには本当に感謝しています。もし上に誰もいなくて、正木(嘉美)が下からきたら、俺はここまで来られなかったと思う。ヒザをケガした段階で、ソウル五輪(柔道)の前にやめていたと思う。全日本選手権を獲ってね。だから、ソウル五輪(柔道)の金メダルがあるのは、山下先輩のおかげだと思うんです。


リハビリ病院で受けた衝撃

本当は、山下先輩が現役を退いた次の年に俺が全日本選手権で優勝しなくてはいけなかったと周りにも言われたし、自分でもそう思った。でも、あれは神様が「お前、勘違いしているんじゃないか。天狗になっているんじゃないのか」ということで、ヒジのケガという試練を与えたと思うんですよ。
ヒジとヒザをケガして、リハビリ病院でおじいちゃんやおばあちゃんと一緒にリハビリして、絶対に生きるんだという執念を見せてもらってね。あれで俺は這い上がれたと思います。俺はなんてちっぽけなことで悩んでいるんだろうって。
手術して、その病院に行ったときは「俺はもう終わった」って、諦めながらリハビリしていたんです。そしたら、俺の近くで、自力で必死にリハビリしていたおじさんがあるとき「斎藤さん、ここまで動くようになった」と言うわけよ。「やればできるんだ」って。「斎藤さんも頑張ってくんなよ。俺たちも頑張るから」って言われて、初めてハッと気がついた。俺はヒザとヒジしか悪くないし、松葉杖はついているけど、ピンピンしている……。そのとき、トンカチかなんかで、ガーンと頭を叩かれるような衝撃を受けたんですよ。
それで初めて、理学療法士の先生が汗をダラダラかきながら、無理やり硬直した身体を引き裂くようなリハビリをしている様子が目に入ってきて、音、悲鳴というのが聞こえてきた。それまで、俺の目には全然周囲は映らなかったんですよね。
あの出来事がなかったら、俺はここまで頑張れなかったと思う。だから本当に、ソウル五輪(柔道)のメダルは、感謝の金メダルなんです。

ケガして教わった感謝の気持ち

斎藤仁氏選手時代の後半はケガが多かったけど、それは神様が「お前はまだまだチャンピオンになる器じゃないんだ」と「もう少し、人間的にしっかりしなさい」と。「チャンピオンになるためには、チャンピオンになれる権利のある心を身につけなければダメなんだよ」ということを神様に教えてもらったのかなと。ヒジをケガして、それでも、気がつかない自分がいて、今度はヒザをケガした。ケガをしたことで、感謝という気持ちを教えてもらった。そう思うんですよね。

※このインタビューは、2009年7月10日に行なわれたものです。


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