「斎藤仁」著名な柔道家インタビュー

斎藤仁 全日本強化副委員長インタビュー

北京五輪(柔道)終了後に全日本男子監督を退き、全日本強化副委員長に就任した斎藤仁氏。

アテネ、北京両五輪では苦戦を強いられ続けた。その監督時代のお話しとともに、現役時代、特にライバル山下泰裕氏との激闘について伺ってみました。

斎藤仁氏

プロフィール

  • 生年月日:1961年1月2日 出身地:青森県青森市 身 長:180cm
  • 主な戦歴

    • 1981年 | アジア柔道選手権大会 95kg超級 優勝
      1982年 | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 95kg超級 2位
       | 嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会 無差別級 2位
      1983年 | 全日本柔道選手権大会 2位
       | 世界柔道選手権大会(ロシア:モスクワ) 無差別級 優勝
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 95kg超級 2位
      1984年 | 全日本柔道選手権大会 2位
       | ロサンゼルス五輪(柔道) 95kg超級 優勝
      1985年 | 全日本柔道選手権大会 2位
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 95kg超級 優勝
       | 世界柔道選手権大会(韓国:ソウル) 95kg超級 2位
      1986年 | 全日本柔道選手権大会 3位
      1988年 | 全日本柔道選手権大会 優勝
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 95kg超級 優勝
       | ソウル五輪(柔道) 95kg超級 優勝
    • 平成13年全日本柔道選手権大会

      平成15年全日本柔道選手権大会

    • 大学当時の斎藤仁氏

全日本監督時代を振り返って

全日本の監督としては2000年のシドニー五輪(柔道)の後、2008年の北京五輪(柔道)までの2期8年。その前に1992年のバルセロナ五輪(柔道)の後から2期、山下(泰裕)監督のときに重量級担当のコーチをやっていたので、結局、全日本の現場で4期16年やってきたことになります。
重量級担当コーチとしては、1988年のソウル五輪(柔道)以降、1992年バルセロナ、1996年アトランタ、そして2000年シドニーと五輪で重量級は金メダルが獲れませんでしたが、1999年のバーミンガム世界選手権では篠原(信一)が2階級制覇したし、それなりの結果は出たのかなと。
そして、山下先輩の後任ということで、監督を2期務めさせてもらいましたけど、ひとつ言えるのは、コーチのときの空気と、監督という柱の上に立ったときの空気じゃ、全然違うということ。口では言えないぐらいの重圧というか。担当のときはその階級を勝たせることを第一に考えればよかったのが、監督は全体のバランスを考えないといけない。上との交渉、また下とのバランスも考えなきゃいけない。上から叩かれ下から突き上げられ……。でも、これは監督じゃないと味わえない重圧であり、監督じゃないと吸えない空気なんですよ。これは実は嬉しい空気なんです。
「監督、大変だね」といろんな人に言われる。「いやもう、大変だよ」って答えるんですが、大変だからこそやりがいがあると思うんです。やりたくてもできないことをやらせて頂くわけだから、やるからには自分のカラーを出したい。どうして「監督は斎藤がやれ」とみんなが言ってくれたのかというところを深く考えて。斎藤じゃなきゃできないことというのを、念頭において組織作りからやってきました。どういうふうに組織を作って、どう強化していくか、そして、環境をどう整えていくかと考えておりました。

常に金メダルを目指して頑張る

斎藤仁氏トップクラスは、国際大会でも世界選手権でも五輪でもアジア大会でも「目標は金メダル。全階級制覇です」と言う。「バカ、現実と理想は違うだろう」とよく言われるんですけど、「常に金メダルを狙うんだ」という誇りというか、プライドは持ち続けたい。だって、「自分の力を120%出して銅メダルを狙います」、「銀メダルを狙います」とか、「何色でもかまわないからメダル獲ります」じゃ、日本柔道界は終わってしまうんじゃないのかなと思うんですね。常に金メダルを目指して頑張るという姿勢が、応援してくださる方、子どもたちに夢や感動を与えられる、そう思ってやってきたわけです。だからこそ、選手たちが金メダルを獲るためには、どういう環境を作ればいいのかと真剣に考えた。
選手にいちばん最初に言ったのは「選手それぞれ所属がある。

その所属の中で自分たちのカラーというものを作って、全日本という所にいるんだ」と。「俺は全日本という所属の中で世界を獲りにいく。個々の所属がどうとか所属のカラーなんて、俺も出さないし、お前たちも出すな」と。「全日本という所属先があって、たまたま国士舘大学の教員なんだ。たまたま旭化成の社員なんだと。そう考えてくれ」と。
所属先には所属先の考え方、方針があるとは思うけれども、トップクラスの選手にとっては、所属があって全日本があるのではなく、全日本があって所属があるという気持ちを持ってもらわなければ、全日本としての強化も難しくなってしまうわけです。
8年間監督をやってきて、最初の1、2年と最後の1、2年では、選手の気質もだいぶ変わりました。8年前とではルールまで違うわけですからね。でも、一貫して言ってきたのは、その場面場面において、自分の心をコントロールして、いかに自分の力を発揮できるようにするか、ということ。そのためには、選手だけでなく、俺自身も臨機応変に対応できないといけないし、その中で斎藤らしさというものを活かしていかなきゃいかんと思ってやってきました。

勝負師・井上康生の敗戦

監督として、思い出に残っていることのひとつは、2004年アテネ五輪(柔道)。アテネでは 3つの金を獲ったんだけれども、最も金メダルに近いと言われた井上康生が獲れなかった。
あいつは組み合わせの関係で、決勝戦で優勝するまで白の柔道衣しか着ないということで、青の柔道衣を部屋に置いてきて、持ってこなかったんですね。やっぱり、持っていくということは、負けて敗者復活を意味するんだと。勝負師・井上康生にとって、それは許されることじゃなかった。
「絶対に決勝まで上がれるという慢心があったんじゃないか」と言う人もいたけど、「退路を断って、自分を追い込む」、それが、勝負師・井上康生なんですよ。その勝負師・井上康生を勝たせることができなかったことは監督として、無念というか非常に悔しかった。

大阪世界選手権での髪の毛問題

斎藤仁氏もうひとつは、2003年大阪世界選手権での髪の毛の色の問題。髪の毛の問題は当時、柔道界に限らず、サッカーや野球、いろんな競技でも問題になっていて、一部のマスコミには「柔道界も考え方が柔らかくなって進歩した」と言われる方々もおられた。
ただ、大阪の世界選手権頃からテレビで大々的に放送され、特別番組なんかも作られるようになって。それ自体は非常にありがたいことだけれども、選手がバラエティ番組なんかに出る機会も増えて、だんだん舞い上がっていったのも確かです。
大阪の世界選手権を大成功させるんだということで、選手・監督・コーチ、みんながひとつになって盛り上げてくれと言われて、テレビに出演したりしたんだけれども、やっぱり一番は試合で勝たなきゃダメなんですよ。
世界選手権前の最終合宿が終わったときに、「常識のある髪の色で、髪の形で来い。決して自分たちの常識じゃないぞ」という話を選手にしたんだけども、結局、ああいう奇抜なカラー、ヘアスタイルで大会に臨んだ選手がいた。あのときは、われわれの気持ちが伝わらなかったということと、選手の意識の低さがとても残念でしたね。

日の丸を背負うことの意義

結局、坊主頭で挑んだ井上康生、鈴木桂治、棟田康幸が優勝して、批判されるような髪の色、髪型をした選手はみんな負けた。その結果もあり、多くの人からいろんなクレームが寄せられ、ガイドラインを決めることにしたわけです。現場の私も選手たちに「髪の色を染めないと柔道ができないんだったら、もう柔道やめていいよ。全日本から出ていってくれ」と言いましたが、それからは茶髪にする選手はいなくなりました。
コーチの中でも、個性を潰しちゃいけないんじゃないかとか、自分の意思表示なんだから、という意見もあったけど、ある意味、その当時の社会の風潮を象徴したできごとだったのかもしれないですね。今じゃ、世間でも、金髪だとか極端な茶髪にしているヤツを見ると「アイツ、バカじゃねえの」とみんなが言うようになってきた。結局、社会現象みたいなもんだったんでしょうね。
日の丸を背負うことの意義をちゃんと理解した選手が代表になっていると思いたいけど、髪の毛に関しても、「髪の色で日の丸がどうとかって関係あるんですか」と言ってくる。やっぱり柔道選手に限らず、人というのは成長すればするほど、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざじゃないですけど、だんだん頭が下がってくる、謙虚になってくると思うんですね。だから、そういうことを言う選手というのは、まだ十分に成長できていないというか、人間として不十分なんだろうなと。ただ、そういう選手たちが普段の練習において手を抜いているかというと、全然そうじゃない。それどころか、すごく一生懸命頑張っていた。たぶん、テレビに出て注目されるようになって、本番に近づくにつれ緊張感も高まり、肩に力が入ってきて……。それで、髪の色や形に逃げるというか、そんなふうになっちゃったのかなとも思いますね。

アテネ後、世界の状況が大きく変化

今思えば、2004年アテネ五輪(柔道)が終わって、2005年に世界選手権がカイロであって、その頃から段々と「いかんな〜」という流れになってきて、パリのワールドカップ。あそこでルールの解釈がガラッと変わった。場外に出て技を掛けてもよくなって、組まなくてもよくなった。だから、日本の選手はなかなか組めないし、「指導」もこない。パッと組んで「さあ、行くぞ」と思ったら、場外に逃げながらの巴投を掛けられる。日本の選手が全然、自分の柔道ができなくなってしまった。あの頃から段々と状況が変わってきた感じがします。
2007年ブラジルの世界選手権は棟田康幸の金メダル1個だったけど、あの棟田の階級(無差別)は五輪ではない階級。ということは、実質金メダルはゼロ、金丸(雄介)の銅メダル1個なんですよね。つまり、本当にどん底からのスタート。そうしたのは誰かと言ったら自分なんです、俺の責任。結果が良かったら選手が素晴らしい、結果が悪かったら俺たちコーチ陣が悪い、監督の俺が悪いということなんです。だけども「北京まで、最後までやれ」と言われた以上は、自分の命を削ってでも、すべてを犠牲にしてでも、金メダル1個でも多く獲るという気持ちでやってきました。

最悪のイメージがはまった北京

斎藤仁氏北京五輪(柔道)は、自分が描いていた最悪のイメージがピタッとはまってしまった。最後に石井慧が勝ったけれども、それまでの負け方がひどかった。メダルにも絡めなかったっていうのはね。金丸は肩脱臼しちゃったし、小野(卓志)もどうしようもなかった。(泉)浩なんか論外、完全な減量失敗。負け方でも、次に繋がる負け方もあるけど、あれは次に繋がらない。泉はカイロ世界選手権で優勝して、ちょっと慢心になっていたのかもしれません。
だから、それを考えたら4日連続で負けたあとに石井はよく勝ったと思う。石井の「他人は関係ねぇ」というあの性格が、あの場面でうまくはまった。考え方や人間性を除いたら、石井は素晴らしいと思いますよ。自分の目的や目標を達成するためなら、人の足を引っ張ろうがお構いなし。その貪欲さと、それに向かう実行力に関しては、本当に頭が下がる。

無駄な一瞬はひとつもなかった

結果的にはアテネと北京で、3つと2つで合計5個の金メダルしか獲れていない。それに北京では2つ金メダルを獲ったけれど、他の選手はメダルにも届かなかった。今の状況で、最高の場面と最悪の場面を考えたときの、最悪の場面にあてはまってしまった。マスコミの方から「いや、よく2個獲りましたよ」、「世界選手権(ブラジル)のこともあるから、ゼロだと思いました」と言われましたけど、気休めにしか聞こえなかった。そのゼロの可能性に持っていったのも俺なんですよね。
もう終わってしまったことだから、ああすれば良かった、こうすれば良かったというのは出てくる。だけども、自分にとっては、無駄な一瞬はひとつもなかったなと思います。人が味わえない空気を8年も吸わしてもらって、これをどういうふうにして柔道界に活かしていけるのか。また、柔道界が斎藤に望むのはどういうことなのか。強化副委員長という立場で、今まで体験、勉強したことを活かしていくことが、これからの私に与えられた課題だと思っています。

ソウル五輪(柔道)、感謝の金メダル

斎藤仁氏自分自身の選手時代の思い出として一番に挙げられるのは、やはり1988年のソウル五輪(柔道)。その前の年のエッセンの世界選手権で日本(男子)が4つの金メダルを獲っていたこともあって、もの凄い期待されていたんだけど、あのときの前評判で、唯一、赤信号がついていたのが俺。ヒザをケガしていて、正直ひどい状態でした。
振り返ってみて、あのとき、上村(春樹)監督はよく俺を選びきったなと思いますね。だから、上村先生に感謝するとともに「上村先生を、男にせにゃいかん」という気持ちでした。だって、俺は前年の世界選手権はケガで辞退していたし、その年の全日本選手権と最終選考会(5月に行なわれた全日本選抜体重別)も勝つには勝ったけれども、気迫だけでしたからね。

技らしい技は全然出せなかった。だから、絶対に選考でもめたと思うんですけど、最終的に上村監督は選んでくれた。結果としては、恩返しができたのかなと思いますけど、あのときは、俺がそんなに気張んなくても、その前に2つか3つは金メダルを獲っているだろうと。それが、あれ?あれ?って、あれよ、あれよで(金メダル0の状態で)来ちゃいましたからね。
今でも覚えているけど、試合の前日に、吉村(和郎)先生が「斎藤、お前が勝つためだったらなんでもしてやる。なんでも言え」って言うわけですよ。あの頃は、吉村先生がコック長で俺たちの朝メシとか全部作ってくれていたんで、「先生、試合の朝、炭水化物をいっぱい摂りたいんで、スパゲッティを作ってもらえますか」って頼んだんだよ。でも、あの当時、韓国にはスパゲッティがなかったらしくて南大門市場からロッテデパートからそこら中探したんだけどなくて。結局、細いうどんをスパゲッティ代わりにしてもらって、ご馳走になった。あの吉村先生の手料理は忘れられないね(笑)。
そんなこともあって、気合は凄く入っていたけど、ヒザの状態はひどくて、緊張や不安、プレッシャーを感じる余裕もなかった。とにかく「明日もてよ〜、頼むぞ」という気持ちだけ。痛みを散らすために、楊枝を重ねて作った針を自分でヒザに打ちながらね。
最終的に優勝できたわけですが、ロサンゼルス五輪(柔道)のときは、俺が勝ったんだっていう自負というか、天狗な気持ちだったけど、ソウル五輪(柔道)のときは、みんなに勝たしてもらった。応援してもらって、支えてもらって、ここまで来れたという感謝だけだった。あれは感謝の金メダルでしたね。


代表辞退まで考えたソウル

選手にとって、終わるタイミング、引き際というのは大事な問題です。本当のことを言うと、引退したとき、俺もまだやりたかった。全日本選手権も初優勝したから、次の年は出場権があったし。出たかったんだけど、五輪が終わってから2回ヒザの手術をして。やっぱり現役時代から「100%稽古できないヤツは、試合に出る資格がない。100%燃えきれないヤツは、相手と戦う資格がない」という、そういう気持ちでずっとやってきましたから。それで、五輪の翌年、引退を決めたわけです。
ソウル五輪(柔道)の代表になったときも、代表のメンバーと同じメニューが全然できなくて、「俺は五輪に本当に出ていいのかな?」と悩んだ。辞退したほうがいいんじゃないかって。これは自分に嘘をつくことになると思ったんです。
でも、そんなときに日本体育協会、当時はJOCがまだないから、日本体育協会から「日本選手団全体のキャプテンを斎藤選手にお願いしたい」という依頼が来た。「先生、やらなきゃいけないですか?勘弁して下さい。自分の柔道の試合で精一杯です」って言ったんだけど、「いいからやれ!」の一言で終わり(笑)。でも、それで「やるしかない」という気持ちになったんですよね。

伝説の「山下VS斎藤」最後の試合

山下先輩とは何度も試合しましたが、最後の試合(昭和60年の全日本選手権決勝)のことは今でも話題になったりしますけど、審判が何もとらなかったということは、あれはポイントでもなんでもないんですよね、やっぱり。もしあれがポイントだったら「技あり」か「一本」だったと思います。だって、倒した俺が一番びっくりしましたから(笑)。

斎藤仁氏それまでの戦いの中で、山下先輩のあるクセに気づいて、それを返せばいいのかなと思って秘密特訓をやっていたんです。その成果かどうかはわからないけど、山下先輩との試合のときにその瞬間を待っていた。それで「来たっ!」と思って前にガーンと出て、足が掛かんないなと思ったら、ドーンと倒れていた。驚いたのは俺だよ(笑)。その後、山下先輩の怒濤の攻撃が来て、「うわ〜、これじゃいかん。俺も攻めなきゃいかん、攻めなきゃいかん」と思って、1歩、くっと出した瞬間に足がポーンとくる。くっと出したときに足と、先に技を掛けられる。あれは、山下先輩が本当にうまかった。俺は「やられた」と思いましたよ。
それは「間」なんだよね。「斎藤が勝ちを意識して守りに入った」とか「逃げた」とか言われたけど、決してそんなことはない。山下先輩と戦って、守りに入ったら勝てるはずないのはわかっていたし、「攻めなきゃいかん、攻め通さなきゃいかん」と思って戦っていたのは間違いない。でも、山下先輩はそれまでの「一本」を取る、技で投げる柔道から、掛け捨てに変えてきたから、作戦を。それにはまっちゃった。

「ポスト山下」から「国士舘の斎藤」に

山下先輩と初めて対戦したのは、俺が大学1年生のときで、山下先輩4年生のとき。俺がたまたま決勝戦までいったんだよね。で、山下先輩の技をたまたま返したんだよ、ポイントにはならなかったけど。そしたら次の日の新聞で負けた俺が1面よ。『山下二世現る』とか、『ポスト山下、斎藤!』ときたわけ。それからだよ、「俺は山下先輩の二世なんだ」「ポスト山下なんだ」と思うようになったの。ということは、山下さん以外には負けられないと。そこからのスタートだったんだよね。それから頑張るしかない、やるしかないって。心地よかったんだよ『ポスト山下』って。ところが実力がついてきて、他の選手に負けなくなってきたときに、なんで俺はいつまでも『ポスト山下』とか『山下二世』なんだって。「俺は国士舘の斎藤だ」という気持ちが出てきた。だいたいよく考えたら、山下さん以外に負けられないと思っているうちは、山下先輩に勝てるはずがないんだよね。それで、これじゃいかんという気持ちになった。

斎藤仁氏山下先輩との試合では、投げられないでチャンスを活かそうと思ったけど、そのチャンスが出てこない。投げられないということは防御の間合いということ。山下先輩は常に投げようという攻めの間合いで、俺は防御の間合い。攻めの間合いにはどうしてもなれなかった。それが最後の最後に自分の攻撃の間合いになれた。それが、最後の試合だった。なんかそれが嬉しくて嬉しくて。山下先輩も面と向かっては言わないけど、いろんなところで言っていたらしいんだよね、「斎藤が組んでいるときに笑った」って。今だから言うけど、俺、実際に笑ったんですよ、にやっと。嬉しくて。自分の攻撃の間合いになって「おー、攻めれるじゃん!」って。そこから、大内刈とか大外刈とかバツンバツン掛けていったんだよね、前半。それで、それまでは攻撃の間合いでしかこなかった山下先輩がちょっと防御の間合いになった。そしたらまた入れなくなったわけよ。それでしょうがないから、奥襟を切って、「大外来い、大外来い」って誘った。で、大外刈がきたと思って、奥襟をたぐって、ビュンって入ったんだけど、それが支釣込足だっただけなんだ。作戦通りなんだよ、あの瞬間は本当に嬉しかったですね。
結局は1回も勝てなかったけど、山下先輩を追いつき追い越せという目標にできたことには本当に感謝しています。もし上に誰もいなくて、正木(嘉美)が下からきたら、俺はここまで来られなかったと思う。ヒザをケガした段階で、ソウル五輪(柔道)の前にやめていたと思う。全日本選手権を獲ってね。だから、ソウル五輪(柔道)の金メダルがあるのは、山下先輩のおかげだと思うんです。

リハビリ病院で受けた衝撃

本当は、山下先輩が現役を退いた次の年に俺が全日本選手権で優勝しなくてはいけなかったと周りにも言われたし、自分でもそう思った。でも、あれは神様が「お前、勘違いしているんじゃないか。天狗になっているんじゃないのか」ということで、ヒジのケガという試練を与えたと思うんですよ。
ヒジとヒザをケガして、リハビリ病院でおじいちゃんやおばあちゃんと一緒にリハビリして、絶対に生きるんだという執念を見せてもらってね。あれで俺は這い上がれたと思います。俺はなんてちっぽけなことで悩んでいるんだろうって。
手術して、その病院に行ったときは「俺はもう終わった」って、諦めながらリハビリしていたんです。そしたら、俺の近くで、自力で必死にリハビリしていたおじさんがあるとき「斎藤さん、ここまで動くようになった」と言うわけよ。「やればできるんだ」って。「斎藤さんも頑張ってくんなよ。俺たちも頑張るから」って言われて、初めてハッと気がついた。俺はヒザとヒジしか悪くないし、松葉杖はついているけど、ピンピンしている……。そのとき、トンカチかなんかで、ガーンと頭を叩かれるような衝撃を受けたんですよ。
それで初めて、理学療法士の先生が汗をダラダラかきながら、無理やり硬直した身体を引き裂くようなリハビリをしている様子が目に入ってきて、音、悲鳴というのが聞こえてきた。それまで、俺の目には全然周囲は映らなかったんですよね。
あの出来事がなかったら、俺はここまで頑張れなかったと思う。だから本当に、ソウル五輪(柔道)のメダルは、感謝の金メダルなんです。

ケガして教わった感謝の気持ち

斎藤仁氏選手時代の後半はケガが多かったけど、それは神様が「お前はまだまだチャンピオンになる器じゃないんだ」と「もう少し、人間的にしっかりしなさい」と。「チャンピオンになるためには、チャンピオンになれる権利のある心を身につけなければダメなんだよ」ということを神様に教えてもらったのかなと。ヒジをケガして、それでも、気がつかない自分がいて、今度はヒザをケガした。ケガをしたことで、感謝という気持ちを教えてもらった。そう思うんですよね。

※このインタビューは、2009年7月10日に行なわれたものです。


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