「小野卓志」著名な柔道家インタビュー

小野卓志

前人未到の全日本選抜柔道体重別選手権大会、3階級制覇を達成した小野卓志氏。
その柔道人生は挫折と挑戦の連続でした。数々の困難にも負けずに挑戦を続けて来られたのは柔道に対する純粋な愛情があってこそ。小野氏が柔道と共に歩んできたこれまで、そしてこれからのお話を伺います。

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華々しくスタートした柔道人生

華々しくスタートした柔道人生

柔道を始めたのは5歳のときでしたね。きっかけは父が柔道をやっていたことです。

その影響で、まず兄が道場に通い始めました。当時は端っこで遊んでいるだけだったのですが、道場の先生に「下の子も元気が良さそうだね」と父が声を掛けられたのです。

それから柔道を始め、6歳のときに初めて大会に出場したのですが、大外刈りと袈裟固めしか教わっていなかった中で優勝することができたんです。それを見て親は「この子は才能があるかも」と気合いが入ったそうです。

当の私は大きな金メダルがもらえたことがとにかく嬉しかったですね。今思うと、そのときに「あっ、楽しいな」と感じたことが、柔道に没頭していくはじまりだったのだと思います。

小学生時代のライバルは金メダリスト

小学生時代のライバルは金メダリスト

小学生時代は石下町体育協会の柔道部に所属していました。6歳のとき大会で優勝し、同級生で強い選手は全部知っているつもりでいたのですが、まだ知らない強い同級生がそこにはいたのです。

のちのアテネ五輪(柔道)100kg超級の金メダリスト、鈴木桂治です。同じ学年であったにもかかわらず、今まで大会で当たらなかったのが不思議だったのですが、聞くと彼は3歳から柔道を始めていて、さらに体格も大きかったことから、幼稚園児なのに小学生1年の部に出ていたそうなんです。

そこで初めて対戦することになるのですが、やはり彼の方が強かったですね。それからは、彼に追いつくために毎日練習をしました。小学生時代の大会はすべて彼と共に決勝戦、団体戦を戦いました。

柔道の団体戦では、引き分けで勝敗数が同じになった場合、チームの代表同士が対戦する代表戦になるのですが、それにも交互に選出されました。「ライバル」とは、きっとこういうことを言うのでしょうね。

そして県のチャンピオンになり、全国大会にも一緒に行きました。

初めての挫折を味わった中学時代

初めての挫折を味わった中学時代

努力に結果が伴ってくると、やっぱりもっと強くなりたいと思うようになります。当時地元にはそれほど強い中学校がなかったので、「東京に出て柔道をやる」という考えに至りました。それは鈴木も同じだったようです。

しかし進む先が彼は国士舘中学校、私は世田谷区立弦巻中学校となり、ここで、ライバルであり仲間だった彼とは別の道へ進むことになったのです。

私は当時古賀稔彦さんや吉田秀彦さんが出場した1992年のバルセロナ五輪(柔道)を見て、彼らの活躍に強い憧れを抱いていました。世田谷区立弦巻中学校を選んだのも、古賀さんや吉田さんが通っていた中学校だったからです。

しかし私はそこで初めての挫折を知ることになりました。中学に入り、全寮制の柔道塾である講道学舎で柔道を教わるようになるのですが、周りは自分以上に身体が大きくて強い人間ばかりでした。

13人くらいいた同級生の中で私が1番弱い上に、生活面では相撲部屋ばりに厳しいルール。そしてそのまま個人戦にも団体戦にも出られないまま3年間を過ごすことになってしまったんです。

かたや鈴木は国士舘中学校でどんどん力を付けていって、全国中学校柔道大会にも出場し、団体では優勝。順風満帆のように私には映っていました。ライバルだっただけにすごく差を付けられたような気がして、辛く暗い中学時代でしたね。

色々な要因があったかとは思うのですが、身長は3年間で3センチしか伸びませんでした。それに伴い、体格に恵まれていたがゆえに得意技となっていた内股も、相対的に体が小さくなってくるとなかなか思うように決まらなくなっていったのです。

その突破口として練習するようになったのが担ぎ技でした。今思えば、そのときに担ぎ技を練習したことが、体が大きくなってからの柔道に活かされたとも感じますし、「練習ができない」、「試合に出られない」といった挫折があったからこそ、のちに「柔道が思うようにできる」という嬉しさを感じられるようになったのだと思います。

暗い過去の先にあった柔道の楽しさ

暗い過去の先にあった柔道の楽しさ

色々とありましたが、高校は強豪である桐蔭学園高校に進学しました。私が石下町体育協会柔道部に在籍していたときに教えて頂いた先生が声を掛けて下さったのがきっかけです。

中学とは違い、高校時代は練習ができる環境が嬉しくて日々練習に明け暮れました。普通なら世田谷学園高校に進学するはずだったのに、桐蔭学園高校に進むことを認めてくれた父の理解に報いるためにも、「絶対に強くならなくてはいけない」という気持ちがありました。

当時桐蔭学園高校はとても強い時期で、私が1年生のときの3年生が、全国高等学校総合体育大会(以下、インターハイ)で初優勝しました。

力のある先輩たちがいたので、1年生、2年生では大きな大会に出られなかったのですが、3年生が引退し、最高学年になってようやく団体戦のメンバーに入れました。中学以来、初めてメンバーに選ばれたのでそれもまた嬉しかったですね。とても純粋に、柔道ができる喜びを感じながら過ごした3年間でした。

高校3年間では中学のときが嘘のように身長が14センチも伸び、身体の成長とともに柔道も良くなっていくのを実感していました。高校3年生時にはインターハイと全日本ジュニア柔道体重別選手権大会(以下、全日本ジュニア)への切符も手に入れ、そのうち全日本ジュニアでは優勝を飾ることができました。それにも色々とエピソードがありましたね。

大学は筑波大学に行きたいというのが私の希望。当時桐蔭学園高校から筑波大学へは校内推薦で2名の枠があったのですが、全国の大会で優勝しないと校内推薦は厳しいと言われていました。

それを踏まえてインターハイに挑戦したのですが、ベスト8で敗退。校内推薦が厳しくなる中、ラストチャンスとして全日本ジュニアに出場したのです。あとがない状況で必死になって勝ち進んで優勝。本当に「ギリギリ」という感じでしたね。

身体的な成長を経てこだわった内股の質

身体的な成長を経てこだわった内股の質

紆余曲折あって、私は無事筑波大学へ入学できました。筑波大学の柔道部はすごく自主性というものを重んじていて、指導という指導はあまり受けませんでしたね。自分で考えてやり方を見つけていくというスタイルでした。

その中で私は、高校時代の成長のお陰で体格も大きくなっていたので「もう一度内股の切れ味を鋭くしたい」と考えました。

具体的には内股を得意とする選手の動きを目で追って盗み、そのまま自分に取り組み、実戦に移すといった練習を繰り返し行なっていました。強化選手に選ばれていたので、全日本の合宿で吉田秀彦さんや井上康生さんの内股が見られたことも大きかったと思います。

大学の4年間は技の巧さにこだわって練習しました。大学時代には幼い頃に憧れた4年に1度の舞台が、憧れではなく現実的な目標になりつつありました。

大学1年のとき、2000年のシドニー五輪(柔道)で瀧本誠さんが金メダルを獲得し、その瀧本さんとはその後、講道館杯全日本柔道体重別選手権大会でも決勝で対戦することに。立ち位置も徐々に上位になってきて、「若手のホープ」と言われるような位置にまで来ていました。

しかし私の中では学生チャンピオンに興味はなくて、目標は日本の代表になることだけでしたので、あと1歩届かない状況に悩んで、とても辛い思いをしていたことを覚えています。

アテネ五輪(柔道)落選と北京五輪(柔道)出場

アテネ五輪(柔道)落選と北京五輪(柔道)出場

2005年、ようやく世界柔道選手権大会(以下、世界選手権)で銅メダルを獲得しました。今の代表選手はみんな若くて、20代前半の選手がほとんどだと思うのですが、私はその当時25歳で遅咲きでしたね。

2004年のアテネ五輪(柔道)の代表にも落選して、自分自身体力が少しずつ落ちてきているのを感じていましたし、「このまま消えていくのかな」と思っていました。それでもアテネ五輪(柔道)が終わってふと冷静に考えてみると、中村兼三さんもキャリアの終わりの方で、秋山成勲さんもいなくなる。そうなると、自分が1番手にいるということに気が付きました。

逆に言えば、「このチャンスを逃したら一生代表になれない」という最後のチャンスでもありました。2005年は世界選手権もそうですが、他の国際大会でも上位に入れる機会が増えてきていて、その年最後の選考会で勝ち、ようやく私は2008年北京五輪(柔道)の日本代表になることができたのです。

私はちょうどそのタイミングで結婚し、子どもも生まれ、親としても「北京五輪(柔道)まで必ず日本代表でいることに必死で取り組んでいこう」と考えるようになりました。それを実現できたのも、強い気持ちで取り組んだからということが理由にあると思います。

人間不信から救ってくれたのも人だった

人間不信から救ってくれたのも人だった

満を持して挑んだ2008年北京五輪(柔道)。私は初戦で敗れ、どん底に突き落とされました。出場するまではすごく注目してくれていた周囲やマスメディアも、やはり負けたらパッといなくなりましたね。

それをリアルに感じて、1ヵ月くらい引きこもり、引退も考えました。普段の試合でも負けると応援してくれた人に申し訳ないといった気持ちになるものなのですが、それが4年に1度の大舞台であればなおさらです。

日本の代表であれば「勝って当たり前」のような空気は感じましたし、「後ろ指をさされたり、ネガティブな感情で見られていたりするのだろうか」と考えていました。でもそんな負の状況から救ってくれたのも人だったのです。

あるとき夜中にコンビニに行くことがあったのですが、店員さんがお釣りを渡すときに「また頑張ってね」と言ってくれました。今まで話をしたこともほとんどなかった人だったのですが、見てくれていたのでしょうね。

他にもウェアをクリーニングに出しに行ったとき、店員さんが「次はロンドンだね」と言ってくれたこともありました。「自分で思っている程悪いイメージではないんだ」ということや、「応援してくれる人がまだいるんだ」ということに気付かせて頂いたのです。

このことをきっかけに、引退ではなく「体が動かなくなるまで挑戦しよう」という気持ちになることができました。

苦しかった減量をやめて見えた新しい柔道の形

苦しかった減量をやめて見えた新しい柔道の形

その後北京五輪(柔道)が終わり、減量をやめ、90kg級に階級を上げました。その結果、気持ちの余裕から柔道に対してポジティブに考えられるようになりました。「これまで寝技は得意じゃなかったけれど、寝技に挑戦してみよう」だとか、「新しい技に挑戦してみよう」だとか、純粋に柔道に向き合えるようになったのです。

国際大会にもいくつか優勝することができましたし、国際柔道連盟のランキングで1位にもなれました。とにかく試合が楽しかったことを覚えていますね。

結局ロンドン五輪(柔道)の代表にはなれなかったのですが、北京五輪(柔道)で負けたとき程のショックはなくて、すぐに次の挑戦に気持ちを向けることができました。

そしてその後は、さらに100kg級に階級を上げました。自分の知らない相手、自分より体格の大きい相手、「これはやられてしまうかも」と思うようなギリギリの戦いが楽しくなってきてしまったのです。

その挑戦があったからこそ、2013年には全日本選抜柔道体重別選手権大会の3階級制覇を達成することができました。その勝因として、選手生命が長かったことや、大きな怪我がなかったこともあるかと思います。丈夫な身体に産んでくれた母には感謝したいですね。

個人的には100kg超級にも挑戦したい気持ちがあったのですが、どれだけ食べてもさすがに100kgは超えられませんでした。

現役にこだわり続ける姿勢

現役にこだわり続ける姿勢

よく「この大会が終わったら引退します」という方がいると思うのですが、私にはそれができません。そこで終わると決まってしまうとその瞬間何もできなくなってしまう。「まだ次があるからこそ頑張れる」というのが私の考え方です。だからこそ体が動く限り続けたい気持ちはあります。

だから、引退して指導者になる人も多い中で、ずっと現役を続けているサッカーの三浦知良選手が好きなんですよね。人がやっていない領域でずっと続けていくことで見えてくるものがあるような気がしているので、そういうことへの期待感が強いのかもしれません。

私も2015年には、コーチをしながら選手として試合に出場しました。指導する立場にあると自分の柔道も客観的に見られることがあります。引退間近になってこういうことが感じられるようになったのも、まだ先に何かあるかもって思ってしまう理由かもしれません。

選手から指導者に立場を変えて見る夢

選手から指導者に立場を変えて見る夢

2016年からは筑波大学の監督として柔道にかかわることのできる機会を頂きました。しかし指導者になって感じたのは、「選手として体を動かしている方が楽だった」ということですね。

選手一人ひとり持ち味も違えば、弱点も違います。そこを把握しながらでないと自分のイメージは伝わらない。自分のやってきたイメージで話をしてしまうのです。

ただそういう難しさの中にやりがいも感じています。1番大きく変われる時期である大学生の時期に、未来のある学生にきっかけを与えられること。そこに自分がいる喜びを日々実感しています。

斉藤仁さんのように、厳しさの中にも人間味があるような、そんな指導者になっていきたいですね。まずはチームとして大学の大会で優勝すること。さらにはその中から日本代表、私がなれなかった世界チャンピオンになれるような選手を育てていきたいです。

インタビュー:2017年1月

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今回は著名な柔道家インタビューとして小野卓志氏にお話を伺いました。柔道一家に生まれた小野氏。その類まれな才覚は6歳にして示されます。中学生時代には初めての大きな挫折を知ることになりますが、それもその後の柔道人生にはプラスに働いたと語る小野氏。挫折と挑戦を繰り返しながら成功してきたことは、その前向きさなしで語ることはできません。今は筑波大学の監督として後進の育成に力を注いでいます。チームとして結果を残すことはもちろんですが、自身がなれなかった世界チャンピオンを輩出することが大きな目標だそう。
小野氏が歩んだ波乱万丈の柔道人生と、そこにある思いを柔道チャンネルでお楽しみ下さい。

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