「野村豊和」著名な柔道家インタビュー

野村豊和 ミュンヘン五輪(柔道)金メダリスト

1972年のミュンヘン五輪(柔道)、1973年世界柔道選手権ローザンヌ大会の金メダリストであり、五輪3連覇を成し遂げた野村忠宏選手の叔父にあたる野村豊和氏に、現在の柔道に対する思いや野村忠宏選手の子供時代などのお話を伺いました。

野村豊和氏

プロフィール

  • 生年月日:1949年7月14日 出身地:奈良県広陵町 身長:165cm
  • 主な戦歴

    • 1969年 |
      世界柔道選手権大会(メキシコ:メキシコシティー) 軽量級(63kg以下) 2位
      1970年 |
      アジア柔道選手権大会(中国台北:高雄市) 軽中量級 優勝
      1971年 |
      世界柔道選手権大会(ドイツ:ルートヴィヒスハーフェン) 軽量級(63kg以下) 2位
      1972年 |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会 軽中量級 優勝
      ミュンヘン五輪(柔道) 軽中量級 優勝
      1973年 |
      世界柔道選手権大会(スイス:ローザンヌ) 軽中量級(70kg以下) 優勝

父親の道場開設をきっかけに始めた柔道

野村豊和氏柔道は、小学5年生のときに、父親の彦忠が豊徳館道場を開設したのをきっかけに始めました。

それまでは、よく風邪を引くひ弱な子供でしたね。それが柔道を1年間続けて6年生になると、体が丈夫になり、健康になったことが自分としては嬉しく、始めて良かったと思いましたね。

その後、広陵中学校に入学したのですが、当時柔道部がありませんでした。それで仕方なく、豊徳館道場で練習をしておりましたが、ここでは少年柔道がなく大人としか練習ができませんでした。誰も子供扱いをしてくれませんので、相当きつい練習でしたね。

そして、中学3年生のときに、生徒総会で柔道部を作ってくれと懇願し、ようやく中学校に柔道部が創部され、数ヵ月後には、近畿大会に初めて個人として出場し、順調に勝ち進みました。

しかし、準決勝の松室選手との対戦では、なかなか勝負がつかず、延長になっても決着がつきませんでした。挙げ句の果て、じゃんけんで勝敗を決めることになり、負けて決勝へは行けなかったという苦い思い出があります。

兄との思い出

父親も兄も柔道に携わっていたため、私も中学校を卒業してからは兄と同じ天理高校天理大学へと進み、柔道を続けました。

兄とは年齢が6歳も離れていたせいか、子供の頃一緒に遊んだ記憶はあまりありません。ですが、兄が天理高校の教師となってからは、技のアドバイスをしてもらったり、よく柔道の話を2人でしましたね。

私の得意な背負投小内刈巴投など身長が低い人でもかけられる技は、兄から教えてもらいました。兄が、指導者として近くに居てくれたことは、私にとっては良い環境だったと思います。

高校時代の練習

野村豊和氏私が天理高校に入った理由は、柔道の名門で自分の柔道がどこまで通じるのかを試したかったからです。試すといっても決して負けたくなかったので、常に勝つためにどうすればいいかを追求していきました。

高校入学時に、ユニバーシアードや、全日本選抜体重別選手権大会で優勝経験のある山崎祐次郎さんが天理大学におられ、それまでの相手の懐に入る背負投と全く違う、相手を引き出して繰り出す背負を教えて頂きました。

あと、山崎さんから毎日打ち込みをやるように言われたので、勉強が終わった夜10時くらいから自転車のチューブを使用して千本打ち込みを一人でやっていましたね。

当時の天理高校には3年生の橋本さんや左右田さん、2年生の磯本さん、諸井さんなど、手本となる先輩がおり、私と同じ学年でも近畿でベスト5の選手が集まっているんです。

強豪揃いで選手層も厚かったのですが、そんな中でも一部員で終わりたくなかったし、同じ苦労をするなら結果を出したいと思っていました。

私は体重が65kgしかなく、練習では力の差、体重や身長の差を見せつけられて厳しい面もありましたが、常に目標を持って練習をしていたので、練習自体はそれ程嫌ではなかったです。夜も一人で打ち込みをしたり、夏休みや休日には一人で走って、練習をしていました。

当時は朝のトレーニングを1時間、夕方は短くても2時間、多いときで3時間、夜は先輩達が寝てから1時間くらいトレーニングをしていましたので、1日約5時間くらいは練習をしていましたね。

天理高校の柔道部では、負けることの惨めさを教わりました。その惨めさを思えば、相手に勝つために努力をしたほうが私自身納得できると思い、一生懸命練習に打ち込めましたね。

柔道に取り組む姿勢が継承された

以前、天理高校の後輩である藤猪省太君が「野村さんはあまり柔道に関して教えてくれませんでした」と言っていましたが、私も山崎さんに背負投を教えて頂いたのはほんのわずかで、その代わりに千本打ち込みを毎日やるように指導されました。分からないことも多かったのですが、いちいち教えを請うわけにもいきませんので、自分で発見したり考えたりしましたね。

背負投でも私と藤猪君では似た部分もあれば、違う部分もあり、技にも個性があります。

私の場合は、背負投を得意とする先輩が周りにはいませんでしたので、参考にすることができず、自分が練習するときの問題点や反省点をノートに書いて、次の練習の対策を考えていました。これを毎日繰り返すことによって、いろいろな発見ができ、インターハイでの優勝、国体での団体優勝につながったと思います。

藤猪君が私をライバルという目で見ていたということを聞きましたが、私自身は、毎日の練習に打ち込んでおり、ライバルとして意識する余裕がなく、柔道部での生活を送ることで精一杯でしたね。ただ、藤猪君が私の練習を常に見ており、私と同じように夜の打ち込みをやっていたので、それによって藤猪君も強くなったと思います。

私の頃の天理高校は国体で完全優勝を成し遂げ、藤猪君は全国優勝をするなど輝かしい栄冠を勝ち取っています。これも練習に励む先輩がいて、それを後輩が見習うといった柔道に取り組む姿勢が代々引き継がれたからだと思っています。

心身共に成長した大学時代

野村豊和氏高校時代に全国大会で優勝し、国体でも全国制覇をしましたので、鼻を高くして天理大学の柔道部に入ったのですが、大学では、高校生の体力とは全く違うことに愕然としました。練習ではいつも投げられ、1年生のときは自信を無くしかけていました。

しかし山崎さんから言われた千本打ち込みを大学に入ってからも続け、練習ノートも試行錯誤をしながら書き続けていたので、徐々に練習にも対応できるようになり、背負投の力も身に付け、自信も取り戻すことができました。

そのあとは2年生のときメキシコで開催された世界柔道選手権大会(以下、世界選手権)に出場しました。

3年生のときに、台湾で開かれたアジア大会に出場して優勝。卒業して社会人になってからは、ミュンヘン五輪(柔道)にも出場できました。

特にメキシコでの世界選手権のときは20歳で、当時、最年少での出場だったと思います。私自身はあまり強いとは思っていませんでしたが、当時の天理柔道は日本を代表する選手が大勢おりましたので、その中で練習したことが肉体的にも精神的にも成長できた要因だと思います。

故郷に金メダルロードとモニュメント

野村豊和氏

1972年ミュンヘン五輪(柔道)にて
金メダルを獲得した野村豊和氏

私が1972年のミュンヘン五輪(柔道)で金メダルを獲ったとき、町内をパレードした思い出があります。

広陵町でも、おそらく奈良県でも金メダリストが誕生したことが初めてで、今後、金メダリストが出ることはないと思っていたのでしょう。ですが、私の甥である野村忠宏君がその後、金メダルを3つも獲ったのです(笑)。

彼は子供時代、見るからに体つきもひ弱で中学生くらいまでは「こんな子に柔道をさせていいのか」と思っていました。ただ、体裁きや技の入り方が非常に鋭くうまかったですね。力で攻めるのではなくて、上手く裁きながら相手を倒すスタイルで、力がなくても強い相手を倒すセンスを持っていたと思います。

これは私にも似た感覚がありますね。私もひ弱だったので力での柔道はどうにもなりませんでした。

彼は非力なところもあり、初めて五輪に出場したときは、私も不安を持ちながら応援していましたが、金メダルを獲ったのでほっとしました。その4年後に、また金メダルを獲ったときは、体つきも技も良くなっていったので、安心して見ていられました。そして、五輪3連覇という偉業を達成したのです。

その記念に何か残したいと思った私は、忠宏君がパレードをした豊徳館道場と役場までのつなぐ道を「金メダルロード」として命名して欲しいと、当時、広陵町の岡本町長に相談をして実現したのです。

竹取公園には、町の人が考案してくれたモニュメントが5本ありますが、1本は私、3本は忠宏君、もう1本は未来の金メダリストに名前を刻んで欲しいという願いを込めて、建立されました。

吉村さんとの戦い

現在の全日本柔道連盟強化委員長の吉村和郎さんとは、何回か対戦しているのですが、彼は変則的な動きで、さっと体落を仕掛ける巧者でした。彼も私の背負いを警戒していたと思いますが、私の背負いでは相手の変則的な動きに対して懐に入ることができません。

その変則的な動きを封じるには蟹挟※で勝負するしかないと考え、試合で実践して勝ったことがあります。その勝利によって彼に対する苦手意識がなくなり、その後、思い切って戦うことができたと思います。
(※蟹挟は、現在禁止技とされています。)

1973年にローザンヌで開かれた世界選手権でも吉村さんと対戦しました。

この大会では、私は軽中量級(70kg以下級)に出場することになっていましたが、体重オーバーだったために、減量で夜の食事を控えました。その翌朝も計量のために食事を取らず、昼にようやく食べられると思ったのですが、他の選手がみんな食事を済ませていたため、私は食べるタイミングを失いました。

それで午後の試合が始まり、準々決勝で相手に諸手刈りをかけられたときに、貧血状態に陥ってドクターの治療を受けました。

この負けにより敗者復活戦に回ることになりましたが、当時は敗者復活戦でも勝ち進むと再度決勝に行くことが可能だったのです。ですから、気持ちを切り替えて敗者復活戦を勝ち続け、準決勝で吉村さんを破り、金メダルを獲ることができました。

練習ノートで攻略法を見つけ出す

野村豊和氏背負投は私の得意技ですが、どうしても背負投では勝てない相手もいます。そこで対戦相手に応じて蟹挟や肩車などの技も磨きました。

身長が高く、手足にリーチがある人にはできるだけ間合いを取って、奥襟を絶対に持たせないような試合運びをするなど、対戦相手によってどんな柔道をするかを事前に考えながら試合に臨んでいました。

強い相手にいかに勝つかを常に考えていましたね。そのヒントを与えてくれたのは毎日欠かさず書いていた練習ノートです。

吉村さんや津沢さん、湊谷さんには、まともにぶつかったら勝てませんので、必ず相手に攻撃させない方法や確実に攻める方法を練習ノートの中で見つけ出し、それを実践したことが勝因につながっていると思います。

どんな相手でも嫌がる組み方など、どこかに弱点が必ずあります。そこを突くことで相手の攻撃を防いで活路を見出しました。相手を研究して戦えば必ず勝つという気持ちで試合に臨んでいましたね。

一線を退き、後進の指導に

野村豊和氏

1972年ミュンヘン五輪(柔道)にて
表彰台に上がる野村豊和氏

大学を卒業後、私は広告代理店に勤務しながらその会社の柔道部で技を磨き、ミュンヘン五輪(柔道)、ローザンヌ世界柔道選手権で優勝することができました。

しかし、社長が交代して柔道部が廃部することになり、私自身もサラリーマン生活は望んでおらず、柔道を離れる気もありませんでしたので、しばらく進路について考えておりました。

そのときちょうど和歌山県教育委員会から県内の柔道を強化したいというお話を頂きました。私は教員資格も取っていましたし、私の好きな海が近くにあることと、故郷の奈良県の隣りで、時々帰ることもできるので、そのお話を受けることにしたんです。

和歌山市内の高校で教壇に立ちながら、柔道部の顧問として36年間指導をし、授業で柔道の良さを生徒に伝えていき、2010年の3月で教員生活を無事終えました。

退職後は「野村道場」という町道場を開設し、近所の小学生を対象に柔道を教えています。今では子供たちと柔道をするのが楽しみで、死ぬまで柔道に携わっていきたいと思っていますので、普段でもダンベルを持ったりして体を動かしています。

私の趣味は、高校教員時代に行なっていたバドミントンです。テニスと違って何歩も動かなくてよく、手首のスナップが柔道でいう相手を崩す感覚によく似ており、練習でも取り入れておりますが、普通の柔道をしている子ではついてこれませんね。

勉強でもスポーツでも上手くいくためには「要領」があると思います。コツみたいなものですね。柔道も勝つ要領、勝ち方が分かればものすごく楽しみにもなりますし、厳しい練習をしなくても勝てると思います。

私も要領を知っていますが、それが柔道の試合で実践できない状態になったため、現役を退いたわけです。

「勝つ柔道」よりも「きれいな柔道」を

野村豊和氏以前、天理大学でフランスの先生たちに柔道の指導をしましたが、力で柔道をしようとしている傾向がありました。

そうなると大きくて力の強い人には勝てません。そのときはできるだけ間合いを取ることと、回転する速さが勝負のポイントだと言いました。

中途半端に引きつけて回そうとすると、相手が大きい場合は回れず、逆に投げられてしまいます。だから相手と間合いを取って速く回転することを覚えることが大切です。

昔は天理柔道というと、できるだけ間合いを取って防御も攻撃もしやすい状態から速く回転して相手を投げるスタイルでした。そのほうが「きれいな柔道」が確立できます。

現代はどうしても「勝つ柔道」に重点が置かれ、「有効」ひとつでも勝ったらいいというようになり、柔道としての魅力が少し欠けている感じがします。これでは観戦している人はなぜ勝ったのか、分かりにくいですよね。だから勝つことだけに執着するのではなく、「きれいな柔道」を目指して欲しいと思います。

現代の柔道は、昔の柔道を知っている私たちが見ていても、あまり魅力のある柔道とは言えません。

細かいルールはないほうが柔道の魅力を引き出す

最近は国際、国内共にルールがいろいろと変わっております。極端なことを言うと私はルールはなくてもいいと思っています。柔道精神に反しない中できれいに投げたら一本、きれいでなかったら技ありでいいと思います。あまり細かくルールを作っていくと、審判をする人も誤審が増えると思います。

下半身を持つと反則負けになるルールですが、柔道家は右と左と下の三角をバランス良く攻めることによって、相手を攪乱(かくらん)するわけです。

例えば私の場合、右ばっかり攻めて左に切り返すなどをしますが、今の選手は、片方のみしかできない人がたくさんいます。右しかできない人が下を持ったら反則負けとなれば技の幅がとても狭くなり技が出せません。

できるだけルールの少ない格闘技、武道のほうが魅力ある柔道になると思います。

今後の柔道普及に向けて

野村豊和氏現在、日本柔道の危機が叫ばれております。

その原因の第一として、高校の柔道人口が以前の半数くらいに落ち込んでおり、優秀な先生がおられても、生徒がいないという状況となっていることです。何とかもう一度、子供たちに柔道への関心を持ってもらいたいですね。

そのために国際試合でもっと結果を出してもらうとか、昔みたいにアニメなど柔道番組のようなもので日本の武道精神を伝えながらもっと馴染みのあるようにアピールし、新しい柔道のイメージを作ってもらえればと思います。

もうひとつは、現役でなくてもシニアの人をもっと活用して指導や普及に工夫をしたほうが良いと思います。

平成24年度から中学校の体育の授業で武道が必修化となりますが、こうした授業での指導にもシニアの人は役に立つと思います。

苦しいとき程楽しいとき

私の好きな言葉は「楽しいと思える日まで苦労せよ」です。スポーツでも勉強でも苦しいと思う人はさぼったり逃げたりしますが、私は逆にできることの喜びを感じます。

柔道でも投げられているときのほうが楽しいかも知れません。何度も投げられても立ち向かっていくことに楽しい部分があるので、逆境でも心の持ち方次第で、向かっていけると思います。

本来は人生というのは苦しい時間より楽しい時間のほうが多いので、もっと逆境を楽しむ、苦しいことをしていても健康で柔道ができること、いろんなことにチャレンジできることを楽しいと思って生活しています。

理にかなった技の伝授が人を成長させる

私は小学校の頃から柔道を始め、練習が終わったあとに、親や先輩たちから技の指導を受けていました。同じように私は少年達に、理にかなった柔道ができるように指導してあげたいと考えています。

柔道は勝敗だけでなく、健康にも良く、精神を鍛えるためにも役立つスポーツです。勝てない子を激励し、将来を考えた上での技の完成度を高めてあげるように指導しています。理にかなった柔道をすることで、人は大きく成長しますし、将来きちんとした指導者にもなれると思います。

※2010年12月現在


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