「古賀稔彦」著名な柔道家インタビュー

古賀稔彦 環太平洋大学の教授&柔道部総監督インタビュー

※2012年3月に医学博士号を取得されました。

環太平洋大学の教授&柔道部総監督、日本健康医療専門学校の校長、古賀塾の塾長、さらに弘前大学の大学院生をしながら、講演会や柔道教室で日本中を飛び回るなど、超多忙な毎日を送る古賀稔彦氏。

あの感動のバルセロナ五輪(柔道)の金メダルから17年。今は指導者として、選手、子供たちの育成に尽力する古賀氏に、少年指導の現場の話を中心にお話を伺ってみました。

古賀稔彦氏

プロフィール

  • 生年月日:1967年11月21日 出身地:佐賀県三養基郡北茂安町
  • 身 長:170cm
  • 主な戦歴

    • 1986年 | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 2位
      1987年 | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
       | 世界柔道選手権大会(ドイツ:エッセン) 71kg級 3位
      1988年 | 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
      1989年 | 世界柔道選手権大会(ユーゴスラビア:ベオグラード) 71kg級 優勝
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
      1990年 | 全日本柔道選手権大会 2位
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
      1991年 | 世界柔道選手権大会(スペイン:バルセロナ) 71kg級 優勝
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
      1992年 | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
       | 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
       | バルセロナ五輪(柔道) 71kg級 優勝
      1995年 | 世界柔道選手権大会(日本:千葉) 78kg級 優勝
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg級 優勝
      1996年 | アトランタ五輪(柔道) 78kg級 2位
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg級 3位

古賀塾を始めて7年

今年で古賀塾を始めて7年目になります。教え子たちは、全国大会の個人・団体で優勝したり、中学校の代表や高校の代表として全国大会に行ったり、少しずつ頑張って結果を出すようになってきました。それはそれでひとつの楽しみではあります。でも、全国大会に出たりすることだけが古賀塾で柔道をする目的ではありません。

柔道という枠組みのなかで、もちろん強くなりたいということを前提にやっている子もいますし、柔道を通しての仲間づくりとか、体力づくりとか、精神的な部分での強化とかを求めて道場に来る保護者とかその本人がいたりします。その目的というのはいろいろあるんですよね。大切なのは、指導している自分たちが、この子たちは何を求めてこの柔道場に来ているんだろう。そして、こちらも柔道というものを通して、この子たちに何を伝えていけばいいんだろうと。

全員に共通して教える部分ももちろんありますけれども、先程言ったように、人により求めるものが多少違ってきますから、個々が求めているものに応えてあげる。体がちっちゃくても、センスがあって、もっともっと強くなりたいという子であれば、そういう中学校や高校に推薦してあげて、そういう道を作ってあげるとか。私がやるべきことは、その子のこれからの道、目指せる道を、一緒に見つけてあげることだと思っています。

たとえ柔道が弱かったにしても、「ああ、柔道をやっていて良かったな」と思えるような環境で指導していれば、中学・高校でも柔道を続けてくれると思います。いずれ大人になったときに、近くの町道場に顔を出すようになり、「ああ、俺も古賀先生みたいに、ちょっと教えてみようかな」と思ってくれると思うんです。

僕らがやりたいのは、競技者として強化していける方向性の子と、いつまでも柔道が好きだと思えるような子供たちをたくさん作っていくことであり、それが将来的な柔道の底辺の拡大に繋がると思っています。

死に場所を作りたい

古賀稔彦氏

自分で道場をやろうと考えたのは、自分と柔道が、自分の人生の最期の場面のときに、どんな関係でいれたらいいかな、ということを考えたことがきっかけです。

そのときに、「あっ、柔道衣を着て、柔道場の畳の上で死ねるのが、柔道との最期のかかわり合いでありたいな」と。じゃあ、そうやって死ねる場所、そういう柔道場ってどこにあるんだろう。まさか他人の柔道場に行って、死なせてもらうわけにもいきませんしね。だったら、自分ちに作ってしまえば堂々と…。

例えば、危なくなったら柔道場に運んでもらって、ぱぱって柔道衣を着させてもらえますし、道場はスペース的にもすぐに葬式ができるような雰囲気ですしね。正面に祭壇があって、畳だし(笑)。

だから、自分で人生の最期の場面を迎えたときの、柔道とのかかわり合いの場所を作りたい、死に場所を作りたいと思って作ったのがこの道場なんです。

学んだことを伝えたい

でも、死ぬのはまだ早いなぁと思って、「俺は、柔道から何を学んできたのかなぁ」ということを、現役が終わったあとに考えてみたんですね。具体的に考えていくと、もちろん柔道をやってきて良かったこともあれば、イヤな思い出もあったりする。でも、「わっ、これいいな」と思うような場面がいくつもあったんです。

努力をする大切さをこの柔道で教えてもらえたとか、夢・目標を持つことは大変だけど、あの瞬間には生きている実感があったなぁとか。先輩後輩の仲間関係で助けられたり、自分も助けてあげたり。

小学生なら小学生、中学生なら中学生、高校生なら高校生、大学生なら大学生、それぞれの世界のなかで先輩後輩という関係が自分にとって、プラスになることばかりだったなと。

人間関係の問題があったり、もちろんそこには師弟関係があったり、あとは親子の関係ですよね。自分のために、親兄弟あるいはおじいちゃんおばあちゃんまでが、例えばお弁当を作って応援に来てくれるとか、涙を流して喜んでくれるとか、自分以上に悔しがってくれるとか。そういったことも、小さい頃から何回もあったんです。そういう経験というのは、今の時代だからこそ、子供にも大人にも必要になってきていると思うんです。礼儀にしてもそうですしね。

そういう、柔道から学んで「良かったな」と思えることを、柔道を通して少しでも伝えていければということで、小さい子から大人まで、年齢を問わず、気軽に足を運べる町道場にしてみようと思い、それで町道場にしたんです。

心の器を大きく持つ

古賀稔彦氏道場をやっていてもっとも感じているのは、人をサポートしていく、人を指導していくというのは、生半可な気持ちと限られた知識ではできないということです。人を指導する、サポートすることがいかに重要であるかということを実感しました。だからこそ、十分な準備が必要だと思っています。

私がいなくても、きちっと指導できる指導者を育成することも大切です。やはり人間関係をうまくやっていくことも、学ばなければできないことがたくさんあります。そういった意味では、いろんなことを勉強しなければいけないなと実感しています。

実際に7年間道場をやってきて、子供やその両親と接する際に心掛けているのは、自分の心の器を大きく持って接していこうということです。ですから、なんやかんやあったにしても、「よし、まずは話を全部聞こう」と。全部聞いたうえで、こちらが冷静に判断して話さなければいけないと思っているんです。

もしこちらが「それは間違いでしょう」と一方的に言ってしまったら、その人が自分の間違いに気付いても、感情的になってしまって間違いを認めたくないというふうになってしまいます。また、陰でなんやかんや言い出したり、変な派閥を作ったりする可能性もあります。そんなふうにはしたくないので、心の器を大きく持って、話を全部聞いたうえで、この父兄、この子供にはどういう話の仕方をしたら納得してもらえるのかを選択して話すようにしています。


指導者の役目

でも、最初からそういう対応ができたわけではありません。私の性格的には、現役時代と変わっていませんので、来たら来た以上に返そうとします。相手がガツンときたら、完膚なきまでに叩きのめす。歯向かってきたら、もうこの人とやりたくないというくらいまで、徹底的にやる。柔道ってそうだと思うんです。
私も典型的にそういうタイプだったんで、本来であれば、ガーンときたら、ガガガガーンとその数十倍で言い返すぐらいの気持ちは持っているんです。

でも、これは現役が終わって全日本のコーチになって学んだことなんです。いくら教えても思い通りにいかないとか、選手の調子がいいときもあれば悪いときもあるとか。そういった状況のなかでも、何月何日に大会があるということだけは決まっているんですよね。その間にケガしていようが、悩みがあろうが、何かあったにしてもそこだけは決まっている。そうなったときに、主役はあくまで選手ですから、選手をその日までにできる限り最高の状況・状態にしてあげられるかどうかが、指導・サポートしている自分の役目なんだと。

ですから、それをやるためには、ちょっとしたことで言い合ったりするのではなく、柔軟な心…柔道というのは柔らの道ですから…柔軟な心を持ってすべてを受け入れる。そして、柔軟な心でそのつど、この状況だったらどうすれば、大会の日にベストの状態に持っていけるか、ということを考え選択していけなかったら、選手がいいパフォーマンスをできないということに気付いたんです。

一人ひとりにあった、言葉がけと指導法

古賀稔彦氏その頃、同時に少年柔道も始めていました。子供たちというのは理性よりも本能が強いですから、余計にこの子たちを受け入れてあげるという姿勢から入っていって、100人いたら100人の目指しているもの、100人の求めるもの、100人の性格、100人の成長のスピード、いろいろあります。「俺について来い」ではなくて、その100人一人ひとりにあった、言葉がけとか指導法とかを考えないといけないなと。

それで、普段から心の器を大きく持って取り組んでいこうと考えるようになったわけです。でも、結構、胃は痛くなりますよ、グーッと。

徹底的にサポートする

女子選手でも子供たちでもそうですが、誰かに支えられているというのが明確になっていれば頑張れるんですね。100人の敵がいたとしても、1人でも2人でも、自分のことを真剣にサポートしてくれる、応援してくれる人がいれば、強くなれるというのがあると思うんです。

だから、例えばうちの塾の卒業生にも、思いついたときにちょっと電話してあげるんですね、「どうだぁ」って。中には親元を離れている子もいますから。そうすると、その電話で頑張れる気持ちになってくれたりするんで、誰かが落ち込んでいると聞くと、なにかをしてあげたいと思ってしまうんです。

でも、そういうことを経験させることで、必ずその子たちもそれをどこかでやってくれると思うんです。自分が大人になったとき、そういう子供を見たとき、「自分もあのとき、こうだったな」と思えば、今度は自分が誰かをサポートしてあげられる。そんなふうに人と人が繋がっていってくれればいいなと。そういうひとつのお手本を見せていきたいなとは思いますけれどね。

私自身も、その時代その時代で、周りの人にそういう経験をさせてもらっているんです。私の周りには、とにかく熱い人が多かったんですよね。うちの両親もそうでしたし、祖父も道場の先生もそうでした。指導するのも熱い、応援するのも熱い。サポートするとなったら、徹底的にサポートしてくれました。そういう人が私の周りにはいつもいたんです。

今は、熱すぎると敬遠されたり、クレームが出てきたりするところもあったりします。でも、元気のない今の時代だからこそやっぱり熱い人がいろんな業界でどんどん出てこないとダメだと思うんです。会社でもそうですよね、トップが熱い会社は、社員もビシッとしていると思います。

試合の負けは、指導者の負け

古賀稔彦氏僕らも子供の指導には、情熱を持ってあたっています。根本には、子供たちにはいつまでも柔道を好きでいてほしいという気持ちがありますから、厳しいときは凄く厳しく言いますけれど、普段は必要以上に厳しくはしません。

試合に負けたときに「お前のせいで負けた」と責めたり、ボッコボコにしばく人とかいますが、僕はそういうことはしません。子供を責めるより、自分らが指導力を学ばなければいけないと思うんです。

以前に、恩師の吉村(和郎)先生のコメントが新聞に出ていたので、それをコピーして取ってあります。吉村先生がある大会で負けたとき、講道学舎の横地治男理事長に言われた言葉として、「負けたのは子供たちじゃない。お前が負けたんじゃ」要するに、子供たちに勝たせてあげられなかったのは、指導者の責任なんだと。この言葉は私自身、とても考えさせられる言葉でした。

怒るのは簡単ですけど、怒るのではなく、修正しなければいけないところは、きちんと修正できるように教えてあげる。足りないところは、僕らの指導力不足だと、そういうところを認めて、自分らの指導力を上げる努力をする。子供たちだけに課題を与えるのではなく、自分たちにも課題を与えて、それをきちっと克服するために取り組んでいかないといけないと思っています。

1人で戦っている姿に感動

子供たちの試合なんかを見て、親御さんというのは結構、ハッとするような場面があるようですね。試合場に1人で出ていって、1人で戦うわけじゃないですか。うちの子はそんなことのできる子じゃなかったのに…、勝った負けたというよりも、みんなの目の前で、1人で戦っている姿に、親御さんが感動するという場面はありますね。

あとはお弁当を持って応援に行って、勝っても負けてもみんなで、どこかの公園とかで昼ごはんを食べるというのは…。僕も子供のころ、当たり前のようにやっていました。今の時代はそれすらも、すごい大切なイベント事になるんです。試合に勝っても負けても、お父さんやお母さんが弁当を作ってくれた、お父さんお母さんと一緒にお弁当を食べたというのが、子供たちの記憶に残ります。自分たちが大人になったときに、子供たちにもそれと同じことをやってあげられると思うんです。

家族が柔道を中心に回っていた少年時代

古賀稔彦氏私自身が柔道を始めたのは小学校1年生。福岡県久留米市の久留米少年柔道クラブという道場で、兄と一緒に始めました。そのあと引越しなどもあって4ヵ所道場は変わりました。父も母も、僕らの柔道のために、非常に協力してくれましたから、家庭環境的には良かったです。

朝、6時から起きて、兄貴と私と親父三人で、近くの神社へ行って、150段の階段を毎日、だいたい5往復から7往復走っていました。そして、近くの豆腐屋で豆腐を買って、家に持って帰るともう母親が朝ごはんを準備していますから、豆腐と一緒に朝ごはんガーッと食べて。チビッ子アスリートにとっては理想的な朝食でした。

学校から帰ってきて練習に行く前に母親が軽い食事を準備してくれて、父親も練習に遅れないように仕事をきちっと終わらせて戻ってきたらすぐに、僕らを柔道場まで連れて行ってくれました。

日曜日が試合だと分かれば、他の休みの日に仕事をできるだけやっておいて、必ずその日は空けておくとか。柔道というものを…柔道イコール自分の子供ですよね。これを中心にうちの家族すべてが回っていました。

家族が真剣にやってくれると、子供としても中途半端にはできないですよね。もし僕の父親が口だけで「ちゃんと朝から走れよ」と言って、自分は寝ていたとしたら、僕らは起きたにしても、適当に走ったふりをするとかしてしまうと思うんです。練習にしても「ちゃんとやってこいよ」と言って、親父がビール飲みながらテレビを見ているようだったら、たぶん手を抜いてしまう。でも、一緒にトレーニングをしてくれたり、道場へ行ってくれたり、ずっと見ていてくれていたので、親子の信頼関係も強くなったと思います。僕らもいい意味で緊張感を持って、やるときは一生懸命にやろうという気持ちになりました。

強くなりたい一心で講道学舎に

小学校を卒業して、東京(講道学舎)に出てきたわけですが、親元を離れる不安というのはまったくありませんでした。

僕は小学校1年生のときに、遊び感覚で柔道を始めたのですが、初めての試合で一本負けして、ものすごく悔しい思いをしました。そのときに絶対にもう負けたくないと強く思ったんです。負けないためには強くなるしかないと、自分のなかにあった負けず嫌いな性格が出てきて、そこからは強くなりたいという気持ちだけで、ずっと柔道をやってきました。親元を離れるときには、先に2つ年上の兄貴も東京へ行っていましたから、俺も東京で絶対に強くなるんだという、そういう気持ちでした。

講道学舎での生活は、同期生以上に僕は厳しい環境だったと思います。というのは、兄貴と同じ部屋だった僕のお小遣いは、全部兄貴が持っていくんですね。なので1年間はお金がまったくありませんでした。当時、中1と中3でしたから、兄貴に何かを言える関係じゃないんですよ。ムチャクチャ怖かったですから。

洗濯も兄貴の分も合わせて1日3回やっていました。干して畳んで。掃除も全部僕。布団も全部そうでした。でも、根本に「東京で強くなるんだ」という気持ちがありましたから、何ごとも当たり前のように対応しようとしていました。寮生活の厳しさに対してもそうですし、練習にしてもそうです。逆に厳しいからこそ、他のヤツに負けられないという気持ちにもなりました。

当時の学舎の練習は、2時間やるかどうかで、決して時間的には長くありませんでしたが、その1時間半なり2時間というのは、常に真剣勝負で、ずっと試合をしているような感じでした。

すべてが勝負

古賀稔彦氏春の高校選手権であれば春休み、金鷲旗・インターハイは夏休みというふうに高校の大きな大会は長い休みのときに行なわれますが、僕らは必ずその期間、出稽古に行っていました。警視庁に行ったり、機動隊に行ったり、大学に行ったり。そこで、大人相手に互角の気持ちでやっていましたからね。

互角の気持ちでやらなかったら、子供相手だとなめられてしまうというのがあるんです。僕ら中学生・高校生でしょう、相手は大人ですから。それは強いですよ。強いんですけど、ほんとに喧嘩のようにやっていました。向こうにしたらガキに負けるわけにはいかんというのがあったと思うんです。それがまた楽しかったですね。有名選手とやって、どれだけできるんだろうかと。自分の成長していくのが楽しかったのが中学生・高校生時代でした。

やる以上は走るのも勝負、練習も勝負、すべて勝負という気持ちでやっていました。選手たちが全国各地から集まった講道学舎は、その当時、タイガーマスクに出てくる「虎の穴」と言われるような環境でしたからね。

その頃を振り返って、一番印象に残っているのは高校2年生のときの金鷲旗です。当時、3年生で強い選手がいろんな高校にいたんですが、僕は2年生で大将、そのほとんど全員に勝って優勝したんですね。会場も、もちろん沸くじゃないですか。百何十sもある強そうな選手たちと72sぐらいしかない上に2年生の自分ですから。会場も沸くし、自分もやってやろうと思ってやるし。相手の選手も2年生の「このちっちゃいの」と思ってやってきますからね。

大きい相手には燃えましたね、楽しかったですしね。あの当時は、たぶん見ている人も「柔道って面白いな」とか、「こいつ、何してくれるのかな」とか、そういう楽しみがあったと思うんです。でも、最近は小中学生も階級制の試合が増えてきて、そうなると、「階級の中で柔道をやっていこう」「ケガをしたら困る」ということで、だんだんと小さい選手と大きい選手が戦う場面は減ってきています。

私も子供たちに無差別の面白さを教えたいんですけど、ケガが怖いんですよ。特に小学生は怖いです。体ができていませんから。中学・高校ぐらいになればいいんですけどね。

初の世界選手権

初めての世界挑戦は1987年のエッセンの世界選手権でした。もちろん優勝だけを前提に取り組んでいましたが、結果は3位。

世界に挑むということで、私自身もコーチ陣も燃えていましたし、強化練習でもガンガンガン追い込んでやっていましたから、いざ本番というときに心も体も疲れてしまっていたんです。でも、エッセンで負けたあと、負けず嫌いの私は、敗因をしっかり追究せず、「たまたま負けたんだ」くらいに考えていました。負けた反省をしなかったことが、翌88年のソウル五輪(柔道)の敗北に繋がったというのはあると思います。

ソウルのときも、周りからは「優勝間違いなし」と言われていましたが、試合直前は「負けたらどうしよう」という不安でいっぱいでした。マスコミの、負けた選手へのコメントなんかを見ると、厳しいことが書かれていました。だんだんと、「俺が負けたら、なんて書かれてしまうんだろう。新聞に書かれるってことは、全国の人が俺のことをそう思うんじゃないか」とか、そんなことばかりを考えてしまったんです。それで、「負けたらどうしよう、負けたらどうしよう」という気持ちが強くなってしまいました。

ベオグラードでの優勝

古賀稔彦氏ソウルで敗北し、本当に反省しなければいけないと思ったのですが、そこで、意識して変えようとしたことのひとつが自主性を取り戻すということ。

やはり五輪ともなると、いろんな先生、いろんなスタッフが周りにきてくれて、「稔彦、これやってみろ、あれやってみろ、こういう練習やってみろ、この食事してみなさい」とか、いろんなことを周りの人が言ってくれるんですね。そうすると、だんだんと、自分の考えが必要なくなってきてしまうんです。

その通りやっていればいいんだ、その通りやっていれば勝てるんだと。そうすると、自分で考える能力がなくなってしまうんですね。そうなると、自ら考え、自らが行動に移すというような自分がなくなってしまって、いざ、試合場に1人でポンっと置かれたときに、「あ、どうしよう」と。自分で考えて行動していなかった分、問題解決能力も低下し、自分で戦っていこうという野生的な本能もまったくなくなってしまっていたわけです。

そこで自主性を取り戻して、自分で考え、自分で行動に移す。周りからのアドバイスもそのままやるのではなく、1回自分のなかに取り入れて、自分なりのものに変えていく努力をしていこうと思ったんですね。

なんとか翌1989年のベオグラード世界選手権では優勝できました。そのときの気持ちを一言で言うなら「達成感」ですかね。自分だけの達成感ではなく、自分に対してサポートをしてくれたたくさんの人たち、両親をはじめ、そういう人たちに対する恩返しという意味での達成感。「やったー!」とか「うれしー!」とかではないです。「やっと達成できた」という安心感でもありました。

ケガの痛さに勝った努力の重さ

1992年のバルセロナ五輪(柔道)は直前にケガをしてしまいました。ケガ自体は、自分がそれまでにした中で一番ひどいケガでしたが、このときには、自主性を取り戻していましたから、大会の前にケガをしても、これでダメなんだと思いませんでした。この状態の中でどう戦おうと考えたんですね。それに、それまでもいろいろな厳しい状況の中をやってきたという思いも強かったので、負けるとは少しも思いませんでした。

大会のあと、いろんな方に「凄い精神力ですね」というようなことを言われましたが、でも、なんでもそうだと思うんです。ひとつの目標に対して、「ケガがあるからダメなんだ」ではなくて、ケガもひとつの通過点だと。すべてを受け入れて、取り組んでいくという姿勢を持つこと、ひとつの問題に対して柔軟な考え方で解決できる方法を探していくことが大事だと思うんです。

それと同時に、努力の重さというのもあると思うんです。ソウル五輪(柔道)で負けて、そのあとの4年間の努力の重さ。それが中途半端な努力だったら、ケガの痛さのほうが勝ってしまって、「今回はダメだ」と諦めるでしょう。

これは仕事でも同じで、真剣に努力してきたら、どんな状況でも絶対に諦めないと思うんです。自分自身の甘さやずるさに負けているようであれば、「今回は無理だよ」、「会社に無理って言えばいいじゃないか」と簡単に諦める。でも、「俺がこれをやりたいんだ」と思って取り組んだ人は、絶対に、最後の最後までなんとかしようという気持ちになれると思うんです。そこの努力の重さの違いというのがあると思います。

一番の思い出

古賀稔彦氏今までの柔道人生の中で、もっとも印象に残っているのは、自分自身の試合ではなく、アテネ五輪(柔道)の谷本歩実の試合です。

自分の夢を達成していくために、自分が頑張り、自分が喜ぶのは当たり前のことだと思うんです。でも、コーチとして人をサポートする側に回って、その選手の夢が達成したときの喜びというのは、自分の現役のときとはまったく違う喜び、感動だというのを知ったんです。

夢というのは、自分が自分のために持つだけではなくて、誰かの夢をサポートすることも、自分の夢に変えることができるんだということを、教えてもらったのが谷本の金メダルでした。

今の時代、自分さえ良ければいいんだと、あるいは自分の子供さえ良ければいいんだというのが当たり前になってしまっています。みんなで、みんなのことをサポートしていく気持ちを持てれば、喜びは何十倍にも膨らんでいくと思うんです。

※このインタビューは、2009年7月27日に行なわれたものです。


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