著名な柔道家インタビュー

日蔭暢年 全日本強化副委員長インタビューその2

2004年アテネオリンピック後から2008年北京オリンピックまでの4年間、監督として全日本女子チームを率いた日蔭暢年氏。いまや名実ともに世界一と言われる日本女子を、さらに安定感のあるチームにするために尽力してきました。

監督としての苦労話とともに、練習環境に恵まれない岩手県警に所属しながら世界選手権2連覇を果たした自身の選手時代、チュニジアでナショナルチームを指導していたときの話などを伺った。

日蔭暢年氏

赴任先には車どころか家もなかった!

日蔭暢年氏チュニジアの選手はハングリーですよ。住環境、食環境ともに悪い。チャンピオンになれば、国が生活を保障してくれるというのもあったから選手は一生懸命だった。
苦労したのは、やはり言葉の問題。柔道の説明なんかは柔道用語じゃない。それは日本語だから。「これやれ、あれやれ、早くやれ」ぐらいは、分かるでしょう(笑)。
ただ、そこを仕切っている会長とか、理事長とかそういう役職の連中との交渉は大変だったね。通訳者を頼んでなかに入ってもらったけど、その通訳がまたいい加減でね。通訳者が言っていることが、実際とは全然違うことだったりね。けっこうあったんですよ。
家も車も連盟で用意してあるということで赴任したのに、何も用意してなくて。車どころか家もない。何ヵ月もホテル住まいだったからお金もなくなってくるしさ。一応、あとで戻ってきたけど、全然足りなくてね。ほとんどボランティアだった(笑)。

ブラジルの世界選手権で倒れる

大学を卒業して、岩手県警、盛岡大学、そして、ミキハウスに入り、全日本の強化にかかわって12年。面白かったというか、充実していたのはやっぱり、きつかったけど、全日本の監督をやっていたときだね。引き際も良かったのかな。ちょうど倒れたりして。ブラジル(07リオデジャネイロ世界選手権)で倒れてしまって。谷が優勝するのを見られなかった。
そのとき、グルジアの監督のハバレーリが、自分とこのチームドクターを連れてきて、診てくれたんですよ。このハバレーリはライバルだったんですよ、現役のときに。
そのドクターが症状を診て、薬を口にポンと入れてくれたら楽になってね。それで回復して、セコンドにつこうかなと思ったら、またおかしくなって。まぁ、今だから言えますけど、いい経験をさせてもらいましたね(笑)。

岩手県大会で優勝し国士舘高に

日蔭暢年氏柔道は中学1年のとき、学校の部活で始めました。小学校のときは近所の子供たちと一緒に野球をやったりしてまして、ポジションは、キャッチャーやったり、ピッチャーやったり、サードやったり。人がいないからどこでもやりましたよ(笑)。あとは、もう海だね。海でず〜っと泳いでいた。遊ぶ道具なんかないんだから(笑)。
宮古市のあたりは、意外に柔道は盛んなんですよ。周りには結構強い中学とかありました。うちの学校はそうでもなかったけど。
で、中学のときに、岩手県大会で優勝して、川野(一成=現国士館中高校長)先生がスカウトに来てね。それで国士舘高校に入った。今の自分があるのは、川野先生のおかげですよ。
でも、高校ではそんないい成績は残してないですね。インターハイには出たけど、ベスト16ぐらいじゃないかな。大学に入って1年生で全日本ジュニアで優勝して、2年生でケガしたんですよ、頚椎。しびれて、1年間棒に振って、3年生から復活して。全日本学生体重別で3年生と4年生2連覇したんです。それで、団体でヨーロッパ遠征とかそういうのに選ばれて。そこからです、世界デビューは。そこから、自分も世界に通用するんだな、みたいなね。よし、世界を目指すぞと。

縦社会の生活で精神的にタフに

高校、大学時代は、とにかく厳しかった。あの頃はみんなそうだったと思うけど、先輩後輩の縦社会が強烈でしたよ。先輩の身の回りの世話をするから、1年生の頃は寝る暇もないくらいでした。でも、そういうなかで生活したことで、精神的にはタフになりましたね、それは間違いない。
練習に関しては、昔はみんなバラバラでしたよ。今みたいに、先生の言うことを大人しく聞いて「言いなり」でやるような選手はあまりいなかった。自分で強くなろうと考えて、人と違うことをやりましたね。先生たちも個性を大事にしてくれたというか、自由にやらせてくれた。だからこそ必死に練習しましたよ。

※このインタビューは、2009年7月10日に行なわれたものです。


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