「日蔭暢年」著名な柔道家インタビュー

日蔭暢年 全日本強化副委員長インタビュー

2004年アテネオリンピック後から2008年北京オリンピックまでの4年間、監督として全日本女子チームを率いた日蔭暢年氏。いまや名実ともに世界一と言われる日本女子を、さらに安定感のあるチームにするために尽力してきました。

監督としての苦労話とともに、練習環境に恵まれない岩手県警に所属しながら世界選手権2連覇を果たした自身の選手時代、チュニジアでナショナルチームを指導していたときの話などを伺った。

日蔭暢年氏

プロフィール

  • 生年月日:1956年7月9日 出身地:岩手県宮古市
  • 主な戦歴

    • 1981年 | アジア柔道選手権大会 78kg級 優勝
      1983年 | 世界柔道選手権大会(ロシア:モスクワ) 78kg級 優勝
      1984年 | アジア柔道選手権大会 78kg級 優勝
      1985年 | 世界柔道選手権大会(韓国:ソウル) 78kg級 優勝

手探りで始めた全日本女子の指導

アテネオリンピック後に監督を引き受けましたが、アテネの数字(女子は金メダル5個、銀メダル1個を獲得)を追い越すというよりも、それになるべく近づけられたらな、という感じでした。もともと、自分がこういう立場(女子監督)になるとはつゆにも思っていませんでした。女子強化の経験があったわけでもないですから。
1996年アトランタオリンピックのとき、私は国際交流基金の依頼で、チュニジアでナショナルチームコーチをしていたんです。そこで、大会でパリに行ったときに、吉村和郎先生(現全日本強化委員長)から女子のコーチに関して打診され、「日本に帰ってきたら連絡してくれ」と言われ、帰国後しばらくしてからお会いし、引き受けることになったのです。同時にミキハウスからコーチの話をもらって、盛岡大学では全日本の強化コーチをやる上で何かと大変なこともあるということで、ミキハウスに世話になることになりました。
チュニジアでは男女を見ていましたが、女子を専門に見ていたわけではないので、女子の強化に関しての経験はほぼゼロ。何をしなくてはいけないか、女子の性格というのをまず勉強しなきゃいけないとか。本当に手探りでした。最初は。

砂浜や山を徹底的に走らせる

日蔭暢年氏はじめに感じたのは、女子は、依存性はあるし、余力は残すということです。そういった女子の特性みたいなものを少しずつ覚えながら、選手達にどれだけやらせたらいいのか、これだけやってくれたらいいだろう、などそういうことを考えました。余力を残すことを最初から考慮に入れて……我々が求めている数字というのがあって、それ以上を設定するんです。それをやらせることによって、我々が目標とする稽古量なり、トレーニングなりが、しっかりできるわけですよ。それが功を奏して、技術的にも体力的にも伸びていった。そこに精神面も付いて、一石二鳥みたいな感じになったわけですね。先人の教えを継承しながら強化して、それが今に繋がっていると思います。
例えば、地方合宿では、走らせましたしね。砂浜だったり山だったり、徹底的に行ないました。全日本の強化選手になっているような選手なので、技術的には出来上がった選手たちですから、決められたことをしっかりと継続してやらせたのが、良かったかなと。それによって、基礎体力が付き、精神的にもずいぶん逞しくなったと思います。

北京は目標達成できずも納得の成績

全日本の合宿は、それこそ日本を代表する選手が集まっているわけだから、しっかりした練習メニューを、限られた時間のなかで、やらせなければいけません。トレーニングでは間をおかず、次から次へと試合のような感じで行ないました。精神面に関しても、コーチ陣が常に把握できるように、ちゃんと張り付いた形でやってくれと、言い続けました。
男子はね、怠けていたら厳しく手を上げることができるかもしれないけれど、女子はそうはいかない。泣きが入るし、上手ですよ、そういうのは。コーチがそれに惑わされたらいけない。そこは強気になって、張り付いた形で「お前しか見てないぞ」と。代表が決まったら、担当コーチが付いて、責任を持って必ず金メダルを獲らせる、という気持ちでやっていたんですよね。そういう意味では担当コーチ制は大事だと思います。
それから、女子は言われたことをとにかく真面目にやりますよ、手を抜かないで。ごちゃごちゃは言いますけど、いい加減な気持ちではやっていないですよ。女子は研究する余裕がないんです。いっぱいいっぱいでやっているから。だから、担当コーチがしっかり見て、適切なアドバイスをするという方法が、効果をもたらせたと思うんですよ。
大会当日にベストな状態にもっていけるようにということで、一枚岩になって、一丸となって戦ったのは良かったと思いますね。
北京オリンピックでは、「全階級メダル獲得」という目標を達成できなかったけれども、実質は、獲れる力は付けることができたと思うんですよね、全階級。そういう意味では、コーチ陣もそうだし、私自身も納得した成績。選手たちはよく頑張ってくれたという思いはあります。

男女の強化は一緒。一枚岩で世界に挑む

日蔭暢年氏北京オリンピックでも、女子の頑張りによって、全日本として救われたという印象があると思います。現状を見れば、男子は勝てなくなってきている。だから、男子も早く若い選手を育てて、世界を必ず獲れるようにしなくてはならない。大袈裟に言えば、全階級制覇できるような選手を育成していくというのが急務じゃないでしょうか。
以前は、男子と女子は別々の強化という感じでしたが、最近は、上村(春樹全日本柔道連盟)会長や吉村強化委員長から「男女の強化は一緒。一枚岩になって、一丸となって全員で力を合わせて戦っていかないと世界では勝てない」というお話もあって、男子が良ければいいとか、女子が良ければいいということではないんだと。お互い、情報交換をしながら、協力して強化していこうという気持ちになっています。
実際、個人レベルでは、なかなか勝てないときもあるんですよ。チーム力によって運まで引き寄せるというような。そういう感覚の勝負もしていかないと、厳しいと思います。

教え子が世界チャンピオンに

全日本の監督になる前、チュニジアに行っていた話は先程少し触れましたが、アトランタオリンピックのナショナルコーチとして、1995年から行っていたんですね。
その頃、私は盛岡大学の教員をやっていたんですけど、国際交流基金からその話があって、アトランタオリンピックの前の年からだいたい1年半くらいでしたかね、チュニスを拠点にして、各地方に行って合宿を組んだりしながら強豪選手を選考して、強化していった。
2001年のミュンヘン世界選手権で優勝した60s級のルニフィは、そのときの選手の一人です。その当時はまだ茶帯で受け身もそこそこの選手でした。でもね、毎日欠かさず練習に来ていましたよ。まさかあれが世界チャンピオンになるとは思わなかったけどね。
ミュンヘンでチャンピオンになったときは、俺も全日本のコーチをやっていたから、あまり露骨に喜ぶわけにいかないじゃないですか。それで、ちょっと来いって言って、隅っこの見えないところに行って「よ〜、がんばったな〜」ってね(笑)。自分自身、チュニジアで苦労した甲斐があったなぁと思ったもんです。あのときは。万歳したかったけど、日本人がいっぱいいるしね(笑)。

赴任先には車どころか家もなかった!

日蔭暢年氏チュニジアの選手はハングリーですよ。住環境、食環境ともに悪い。チャンピオンになれば、国が生活を保障してくれるというのもあったから選手は一生懸命だった。
苦労したのは、やはり言葉の問題。柔道の説明なんかは柔道用語じゃない。それは日本語だから。「これやれ、あれやれ、早くやれ」ぐらいは、分かるでしょう(笑)。
ただ、そこを仕切っている会長とか、理事長とかそういう役職の連中との交渉は大変だったね。通訳者を頼んでなかに入ってもらったけど、その通訳がまたいい加減でね。通訳者が言っていることが、実際とは全然違うことだったりね。けっこうあったんですよ。
家も車も連盟で用意してあるということで赴任したのに、何も用意してなくて。車どころか家もない。何ヵ月もホテル住まいだったからお金もなくなってくるしさ。一応、あとで戻ってきたけど、全然足りなくてね。ほとんどボランティアだった(笑)。

ブラジルの世界選手権で倒れる

大学を卒業して、岩手県警、盛岡大学、そして、ミキハウスに入り、全日本の強化にかかわって12年。面白かったというか、充実していたのはやっぱり、きつかったけど、全日本の監督をやっていたときだね。引き際も良かったのかな。ちょうど倒れたりして。ブラジル(07リオデジャネイロ世界選手権)で倒れてしまって。谷が優勝するのを見られなかった。
そのとき、グルジアの監督のハバレーリが、自分とこのチームドクターを連れてきて、診てくれたんですよ。このハバレーリはライバルだったんですよ、現役のときに。
そのドクターが症状を診て、薬を口にポンと入れてくれたら楽になってね。それで回復して、セコンドにつこうかなと思ったら、またおかしくなって。まぁ、今だから言えますけど、いい経験をさせてもらいましたね(笑)。

岩手県大会で優勝し国士舘高に

日蔭暢年氏柔道は中学1年のとき、学校の部活で始めました。小学校のときは近所の子供たちと一緒に野球をやったりしてまして、ポジションは、キャッチャーやったり、ピッチャーやったり、サードやったり。人がいないからどこでもやりましたよ(笑)。あとは、もう海だね。海でず〜っと泳いでいた。遊ぶ道具なんかないんだから(笑)。
宮古市のあたりは、意外に柔道は盛んなんですよ。周りには結構強い中学とかありました。うちの学校はそうでもなかったけど。
で、中学のときに、岩手県大会で優勝して、川野(一成=現国士館中高校長)先生がスカウトに来てね。それで国士舘高校に入った。今の自分があるのは、川野先生のおかげですよ。
でも、高校ではそんないい成績は残してないですね。インターハイには出たけど、ベスト16ぐらいじゃないかな。大学に入って1年生で全日本ジュニアで優勝して、2年生でケガしたんですよ、頚椎。しびれて、1年間棒に振って、3年生から復活して。全日本学生体重別で3年生と4年生2連覇したんです。それで、団体でヨーロッパ遠征とかそういうのに選ばれて。そこからです、世界デビューは。そこから、自分も世界に通用するんだな、みたいなね。よし、世界を目指すぞと。

縦社会の生活で精神的にタフに

高校、大学時代は、とにかく厳しかった。あの頃はみんなそうだったと思うけど、先輩後輩の縦社会が強烈でしたよ。先輩の身の回りの世話をするから、1年生の頃は寝る暇もないくらいでした。でも、そういうなかで生活したことで、精神的にはタフになりましたね、それは間違いない。
練習に関しては、昔はみんなバラバラでしたよ。今みたいに、先生の言うことを大人しく聞いて「言いなり」でやるような選手はあまりいなかった。自分で強くなろうと考えて、人と違うことをやりましたね。先生たちも個性を大事にしてくれたというか、自由にやらせてくれた。だからこそ必死に練習しましたよ。

岩手では、練習はほとんど一人で

大学を出て、岩手に戻って。岩手県警での練習は、交番所勤務もあったんで、昼休みにトレーニングを1時間。
仕事が終わったあとは、高校に行って練習したり、あとは走り込み。体力を落とさないように。国際大会とか世界選手権の前だけ、国士舘大に行って練習させてもらって。岩手では、練習はほとんど一人でやっていたようなもんでしたね。あとはチーム。警察の大会があれば、それに向けて何ヵ月前から、練習予定を作って。前日訓練とかあるんですよ、そういうときはチームの選手と練習したり、終わったあとに一人で走ったり。
練習環境に恵まれない岩手で柔道を続けることに対する不安は特になかったです。でも、大きな試合の前ぐらいは、母校で調整をしたいな、練習をしたいなという気持ちはありましたけどね。今の選手みたいに柔道に専念できるような環境ではなかったですよ。仕事をやりながら、やるしかないと。そういう条件ですから。

岩手県警を管区最下位から一気に優勝へ

日蔭暢年氏当時、東北管区で最下位だった岩手県警を一気に優勝させたんだよね。で、それから連続で優勝して、他の選手たちの練習も全然変わって、妥協しなくなったり、激しい練習をするようになった。先輩だろうが関係なし。頭から落ちて救急車で運ばれたりね、そういう練習をしていました。警察でも、なかには強いのがいるんですよ。重たいやつとか。その管区のなかでもね。ほとんど重量級の選手と稽古していたから、それも力になったね。試合数も多かったし。重量級と稽古したことによってパワーは付いたね。軽いやつはスピードもなくては勝てないからね。そういう意味では良かったと思う。だから、同じ階級のやつばかりじゃない練習というのは、大事じゃないですかね。
そういう練習のおかげもあって、82年の全日本選手権でたまたま3位に入った。でも、あのときの全日本選手権の組み合わせはきつかった。重たい選手とばかり当たったからね(笑)。

ソウル世界選手権、大逆転の裏側

1983年モスクワ世界選手権では当然、金メダルしか狙っていませんでした。優勝したときは、責任を果たしてホッとしただけ、「万歳!」じゃないですよ。「あ〜責任果たせた」という安堵だけでした。
当時の78s級には、強い外国人選手がたくさんいました。イギリスのアダムス、ソ連のハバレーリ、シェスタコフ、東ドイツのオーミゲン。他にもヨーロッパに強豪がいっぱいいました。そういう選手たちと世界選手権の1回戦から戦っていたんですよ。オリンピックに出ていなかったから世界選手権でのシードがなくて。でも、かえってそれが良かったかもしれないです。緊張感をもってできてね。
みんな強かったですよ。スタミナもあって。以前は3分我慢しろ、そしたら外国人はスタミナが切れるから、みたいな戦い方だったですけど、そうじゃなくなってきましたからね。日本人もみんなバチバチやられていたしね。
1985年ソウル世界選手権の決勝は本当に危なかった。今でも思い出すのは、あのとき、私が続けてポイントを獲られたら、コーチがいなくなったからね、もうダメだって諦めて。なんかちょっといいアドバイスでも……とチラッと見たらいないんだもん(笑)。もう、真っ白だった。あそこから逆転勝ちできたのは……本能としか言えないですね。これはもうダメだ、でも、絶対に負けられない、これで負けたら帰れないと。そういう思いだけでしたよ。

大会に出すぎ、ロス五輪の代表になれず

日蔭暢年氏1984年のロサンゼルスオリンピックには、行けなかったですね。日本の予選で負けて。でも、これはもうしょうがないなと。大会に出すぎたんですよね、言い訳をすれば。いろんな大会が重なって。やる気はあるんですよ、くそーって燃えているんだけど、体が言うことを聞かなかった。選べなかったんですよ、大会を。大会がとにかくいっぱいあって、警察の大会やら、国体やら何やらって。それも予選から。全部出なきゃいけないんですよ。
警察の個人戦があったり、団体戦があったり。岩手県警の名を背負っているんだから、それは絶対に出なきゃいけない。そうじゃないと、お前はどこから給料をもらって生活できているんだということになるわけですよ。だから、まずは、そこが一番大事。世界選手権やオリンピックはそのあとに考えることだったんですよね。
だから、大きい大会で優勝したから、我を忘れてはしゃぐとか、そういう人間はほとんどいなかったですよ。責任を果たしたと、なんとか面目を保って肩の荷が下りたと、そういう選手のほうが多かったんじゃないですか。自分もそうでしたけど。

オリンピックや世界選手権は趣味の領域!?

岩手県警で柔道を続けさせてもらえたことは、感謝の気持ち以外ないですよ。常に、やらせてくれて、ありがとうみたいなね。これは優等生のコメントじゃないですよ。常にそう思ってやってましたよ。
だって、警察に入った頃は「お前、なんで柔道なんかやってんだ」と。「仕事やれよ」、「仕事覚えろよ」とそういう人たちばかりでしたからね、周りの本官は。柔道関係者はそうじゃないですけど。
「自分の趣味で好きなことをやらせてもらっているんだから、時間外にやれよ」と。でも、県警というのは全国どこでもそんな雰囲気だと思いますよ。特別扱いなんかは一切なかったです。
ただ、管区の警察の大会は、仕事として考えてくれるわけですよ。所属管区の名誉のために戦うわけですから。でも、一線に出たら、「柔道なんかやってんなよ」と。そういう人たちもいるんだと思ったら、ほとんどの人がそういう人たちだった、みたいな感じでした。理解がなかったんですよ、弱いチームだったから。ただ、強くなるにしたがって、見方が変わったというのはありますね。そういうのも、変えないかんと思いながら必死にやっていたんですけどね。そこまでいくのは大変でした。でも、そういう恵まれない環境のなかでやったことで、周りに感謝する気持ちや、精神的な強さというのが養われたんだろうと思いますね。

※このインタビューは、2009年7月10日に行なわれたものです。


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