著名な柔道家インタビュー

天野安喜子 国際A級審判員インタビューその2

「かぎやぁ〜」の掛け声で親しまれる夏の風物詩、花火。その鍵屋の十五代目当主の天野安喜子さんは柔道の国際審判員としても著名です。昨年の北京オリンピック、今年8月のロッテルダム世界柔道選手権大会でも、IJF(国際柔道連盟)より選出され、日本の代表として審判を務めました。

鍵屋当主、天野道場副館長、そして一児の母として多忙な毎日を過ごすと同時に、国際審判員としても活躍する天野さんにお話をお聞きしました。

天野安喜子氏

父が「絶対」の天野家

天野安喜子氏私が柔道を始めたのは小学校2年生で、父が柔道場(天野道場)を開くのをきっかけに、私と姉とで第一期門下生になったんです。

おじいちゃん(鍵屋十三代目)も柔道をやっていたんですが、道場を開くことができなくて、十四代目の父がおじいちゃんの遺志を継いで、地域の青少年育成のために開こうということで始めたんです。江戸川区の東小松川というところで、今は私も副館長をやっていて、強い道場とは言えませんが、子供たちはみな素直で元気に通ってきています。

私は父が好きだったので、父が教える道場で練習することは苦じゃありませんでしたが、強化選手になって練習がきつくなると、柔道が一時嫌いになりました。「もう辞めたいな」と思った時期もありました。
でも、天野家は、父が「絶対」という家系なので、父が「辞めてもいいよ」と言うまでは、辞めるわけにはいかなくて。大学を卒業して、父から「もう辞めていいよ」と言われるまで、私なりに一生懸命、柔道に取り組みました。


中・高は「お嬢さん学校」

天野安喜子氏中学・高校は柔道に全く縁のない、共立女子学園に通っていたんですが、大会に出られるように、高校では名前だけの柔道部を作ってもらって。 学校自体は「お嬢さん学校」と言われる学校なんですが、私は、髪の毛が長くなると父から「刈ってこい!」と言われるぐらいベリーショートにしていて、男の子みたいに活発でしたね。
その頃の練習は講道館が中心で、時々、電気通信大学や国士舘に出稽古に行ったりしていました。

柔道の基本は父からしっかり教わっていましたが、競技力に関しては、全日本の監督をされていた柳澤久先生(現、三井住友海上監督)にご指導頂きました。
当時の練習は、とにかく苦しかったです。私にはハングリー精神が全然なくて。「ハングリー精神ってなに?」というくらい、まだ幼かったので、強化選手の練習は正直きつかったです。

うちの父がプレハブでウエイトトレーニング場を作ってくれましたので、ウエイトとか走り込みとか、一般の選手よりは自主トレもしていたとは思うんですけど、それでもやっぱり自分に勝つということ、自分に厳しくすること自体を知らなくて、全部苦しかったです。 やはり日本代表選手になるぐらいになってくると、練習量だけじゃなくて、精神的にもかなり強くなければいけないですから、そのへんの精神面では私はものすごく弱かったように思います。


山口香さんに勝って

私は中学3年のときに、全日本女子体重別選手権大会に出たことで、女子強化選手にも選んで頂いたんですが、特に注目されるようになったのは、高校生のときに山口香さんに勝ってからでした。 当時の山口さんは、神様的存在でしたから、その山口さんに勝っちゃったときは、天狗になりましたね、素直に(笑)。

その大会(都道府県対抗全日本女子柔道大会)前は、もちろん山口さん対策しかしていなくて、山口さんの得意の小内刈をはずして背負投に入るという、それだけをひたすら練習してました。だから、自然にそれが出たんですね。でも、終わったあとには「天野安喜子ってすごい」と自分で思ったりしてしまって。人への感謝の気持ちもなく、どこかで威張っていて人の話も聞いてなかったんでしょうね。
普通だったら、次は自分がいつ倒されるか分からないという恐怖心が出てきてもいいところが、それもなくて。ですから、ガーンと上には上ったんですけど、ガーンと落ちました。そのときに、社会の厳しさを知りましたね。

翌年の全国高等学校柔道選手権大会で1回戦負けしたときには、応援して下さっていた方が手の平を返したように、「もう柔道やめなよ」と言ってきたり。「大会に出て恥ずかしくないのか」と言う人もいました。
高校生としては、やるせない気持ちをどこにもぶつけられず、精神的にはかなり苦しかったです。今になればそれもいい経験ですけどね。

体育会系柔道部

天野安喜子氏大学は、日本大学(日大)に行ったのですが、女子部員はまだいなくて私が第一号。みんな「なんで女子が入ってくるの?」という感じでした。
日大は強くて大きい選手が多いですから、練習でぶつかるだけでもケガをしてしまって。高校生まで人の怖さを感じたことはなかったんですけど、大学に入って「人ってこんなに怖いんだ」というのを勉強しましたね(笑)。
女子は私一人でしたから、最初はもてはやされるんじゃないかと思ったんです。中学・高校が女子校で、初めての共学でしたし。でも、甘かったです(笑)。

練習相手は男子のマネージャーさん。高木(長之助)先生がいらっしゃらないときは、畳1畳だけで「ここでやれ」みたいな感じでした。
次の年から女子が何人か入ってきたので、練習相手もできましたが、それまでの1年は、何と言うか…、不思議でした。初めての世界というか、異文化でしたね。

男性の中に入っていくことには抵抗がなかったんです。うちが花火屋で、男性社会の中で育っていましたし、柔道でも、女子が盛んな時代ではなかったので、町道場もほとんど男の子ばっかりでしたから。でも、やっぱり体育会系柔道部というのは、異文化でしたね。
結局、大学では全然、成績を残せませんでしたが、振り返ってみると充実した4年間を過ごすことはできたと思います。


天野一族は柔道衣を着なくてはならない

私が鍵屋の後継者になることは、小学校2年生のときから決まっていました。うちは三姉妹なんですが、私が2年生のとき、5年生になる姉は劇団に入っていたので芸能界とか、そういった華やかな世界に憧れているところもあって、花火は継がないと。
それで決定されたわけじゃないと思うんですけど、三姉妹の中で、私が一番花火を好きというより、父が好きだったということで、いつも一緒だった。お父さん子だったんですね。
どちらかというと、女性としては育てられていなくて、男の子として男の子っぽく育てられて。父とは波長も合うということで、小学校2年生のときから、自然にそういうことになったんです。

天野一族は基本的には柔道をやる、強くはなくても一応は柔道衣を着るということになっているので、小学3年生になる私の娘も柔道をやっています。
そんなに強いわけではありませんが、一応、去年は江戸川区の柔道大会で2位になりました。たぶん、鍵屋の十六代目になると思います(笑)。

私は、娘は強くならなくていいと思っているんです。でも、柔道をやっていると、人間関係の保ち方とか、人を敬い、頭を下げる習慣とか、日本の風習や文化とか、そういった身に付けなきゃいけないものが身に付けられると思うんです。
それと、人から見られている、一人でも多くの大人から見られているという環境にどんどん出向かせることで、「責任ある行動を取らなくちゃいけない」という意識を持ってもらえればいいなと考えています。正直なところ、強くならなくていいと思うんです、大変だから(笑)。

※2009年10月現在


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