「天野安喜子」著名な柔道家インタビュー

天野安喜子 国際A級審判員インタビュー

「かぎやぁ〜」の掛け声で親しまれる夏の風物詩、花火。その鍵屋の十五代目当主の天野安喜子さんは柔道の国際審判員としても著名です。昨年の北京オリンピック、今年8月のロッテルダム世界柔道選手権大会でも、IJF(国際柔道連盟)より選出され、日本の代表として審判を務めました。

鍵屋当主、天野道場副館長、そして一児の母として多忙な毎日を過ごすと同時に、国際審判員としても活躍する天野さんにお話を聞かせて頂きました。

天野安喜子氏

プロフィール

  • 生年月日:1970年10月31日 出身地:東京都江戸川区 
    審判員資格:国際柔道連盟A級審判員
  • 主な戦歴

    • 1986年 | 福岡国際女子柔道選手権大会 48kg級 3位
       | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 48kg級 3位
      1987年 | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 52kg級 3位
      1988年 | 全日本選抜柔道体重別選手権大会 52kg級 3位

父の勧めで始めた審判

天野安喜子氏私が審判をやることになったきっかけというのは、父からの勧めでした。
私が大学卒業と同時に柔道の現役を引退して、家業の鍵屋を継ぐための修行で山梨に行っているときに、東京都柔道連盟(都柔連)で女性審判員を育てるという動きがあったんです。
それで、父が都柔連の役員をしていた関係もあって、「都柔連で女性審判員を育てるらしいから試験を受けてみたらどうだ?」という話があったんです。
天野家では父の言葉は絶対で、「どうだ」=「受けろ」ということなので、それで「国内C級審判員」の試験を受けました。それが平成7年だったと思います。

その頃、私は「審判員」というのは、年輩の、高段者の、すごい方がやられるものだという印象を持っていたので、実際に試験に受かって自分が審判員になったら、ちょっと天狗になってしまって(笑)。
「早く帯を直しなさい」なんて、偉くなったような気がしてしまったんですよね。今考えると、ちょっと恥ずかしいんですが…。

意識が変わったのは「国内B級審判員」になったあたりからですかね。
「私は審判員なんだから、私の言うことをちゃんと聞きなさい」というより、「自分には何が足りないのかな」とか、「技術的に足りないのは何だろう?」ということを考えるようになったんです。「同じミスを繰り返さないためにはどうしたらいいだろう」とか。

ロッテルダム世界柔道選手権大会でのインカム問題

ロッテルダムの世界柔道選手権大会に日本から参加した審判員は私だけだったんですが、今、結構話題になっているのが、主審が着けていたインカム(正式名:インターカム、ハンズフリーで使用できる通信装置のこと)の件だと思います。
私もインカムは着けましたが、判定に関して審判理事から何かを言われたというのは一切ありませんでした。 「インカムからの発言をそのまま受けてジャッジすると、審判員は操り人形のようになるのでは?」などいろんな意見があるとは思うんですけど、本当にミスジャッジで直されている場合もあると思うんですね。 思い込みで反対側の選手に「指導」を与えてしまうとか。絶対にないとは言えないと思うんです。

ブルーの選手かホワイトの選手か、分からなくなることもありえます。そんなとき第三者として見ている審判理事から指示が出ることで、逆に安心感を与えてもらえることもある。 悪いことのように言われているケースが多いと思うんですが、一概に「悪い」じゃなくて、良いこともあると思います。
ただ、今度の世界ジュニア柔道選手権大会(10月22日〜25日)は一審制になるんですが、それだけはやはり不安や疑問がありますね。

また、世界ジュニア柔道選手権大会では試験的に新ルールが導入されますが、今回の全日本ジュニア柔道体重別選手権大会(9月12日、13日)はそれにつながる大会として、一審制とインカム装着以外のルールに関しては、新ルールが適用されました。
肩車とか双手刈など、帯から下をいきなり手技として攻撃したら「指導」、2回目で「反則負け」という厳しいルールになって。選手の反応はどうかなと、私も個人的に興味があったんですけど、実際の試合では大きな混乱はなかったんです。やはり日本人は小さい頃から組む柔道を教わってきているからでしょうね。

新ルールでも強い外国人選手

国際ルールは、いきなり足を取るとか、消極的な柔道をすることに対しては、すごく厳しくなってきていて、そういう試合をどんどんなくしていこうという方向になってきています。
7月のグランドスラム・リオデジャネイロあたりから、消極的な試合をしていると3分で反則負けになってしまうくらいになっています。だから、組んで技を掛け続けなきゃいけない。掛ける柔道じゃなくて、掛け続けなくちゃいけない柔道が求められていますね。

ロッテルダムの世界柔道選手権大会もそうでした。反則を取るのがものすごく早い。組み合わない、消極的と思われるような試合をしていると、すぐに「指導」がきます。世界はそんな傾向であり、日本が目指す柔道に近づいてきていると私は思っています。
そういったことを考えると、子供たちは勝ちにこだわる柔道をしないほうがいいと思うんですね。

いつもうちの道場の子供たちにも言うんですけど、足を持ったり、掛けつぶれるような技を掛けたりとか、技の続かない、次に繋がらない技を身に付けるよりも、基本をどんどんやっていって、1回目がダメだったら、2回、3回といろんな技に変化できるような、そういうものを身に付けなければいけないと。世界はそういう流れになっていると思います。だから、相手の組み手を切って切って、片手だけを持っての背負とか、肩車とか巻き込みとかでも、今までは罰則の適用基準がそんなに厳しくなかったので、勝てましたけど、これからは片手だけの技ではすぐに「指導」がきますから、そういう柔道では勝てなくなっています。

このルール変更は、外国人選手にとって不利になるのかと思っていた部分もあったんですが、全然そんなことはなかったです。
世界柔道選手権大会で審判をしたときに、今まであまり組み合わずに朽木倒や双手刈を掛ける戦法を得意としていた選手が、内股や背負投などで豪快に投げるのを見て鳥肌が立ちました。同時に日本は海外を少し甘く見ているんじゃないかという、怖さも感じましたし、「きちんと組めれば日本のほうが強い」なんて言い切れないと思いましたね。

オリンピックで審判をするまで

オリンピックや世界柔道選手権大会の審判をするまでには、いろんな試験がありました。
まず国内でA級を取り、全日本柔道連盟より推薦を頂いて、国際柔道連盟コンチネンタル審判員を目指します。試験に合格すると、今度はアジア柔道連盟の推薦を頂いてインターナショナル審判員のライセンスを取って。私の場合、インターナショナルの試験は南アフリカで行なわれたアフリカ選手権大会でした。
さらに合格したらフランス国際大会とかドイツ国際大会などの大きな国際大会に、審判としての技術をアピールするために行かせて頂いて。その甲斐あって、世界ジュニア柔道選手権大会に行き、世界柔道選手権大会、オリンピック審判員となりました。

試験の内容は、コンチネンタルの場合、実際に柔道衣を着て柔道の実技的なこと、例えば乱取りを軽くやったり、言われた寝技を実際に掛けたり。あとは英会話の試験があって。私はあまりできないんですけど、一応、通っています(笑)。そして審判員の制服を着ての実技。これに受かると、コンチネンタル審判員のライセンスがもらえます。インターナショナルは審判員としての実技だけです。

世界ジュニア柔道選手権大会からは選抜方式の試験のようになるんですが、世界ジュニア柔道選手権大会で決勝ラウンドに審判員として入っていると、世界柔道選手権大会に行ける可能性が見えてくる。世界柔道選手権大会も同じように決勝で主審をやると、次の段階のオリンピックに行ける可能性が濃厚になるんです。

本職は鍵屋十五代目当主

審判員として、国内外に行くことが多いのですが、私の本職は、宗家花火鍵屋の十五代目当主としての仕事です。
花火というのは、「夏の風物詩」と言われているように、消費する量が多いのはやはり夏なんです。ひとつの花火大会はだいたい半年以上前から、準備していくので、春先から夏の花火大会に向けて打ち合わせなど、どんどん忙しくなっていきます。いくつかの大会は同時進行ですしね。
夏が終わると秋祭り、冬にはカウントダウンなどがあるので、打ち上げだけではなく、その打ち合わせや会議、準備などで年間を通して忙しく走り回っています。
その合い間に柔道整復師の専門学校と日本大学芸術学部の大学院にも通っていたんですが、そちらは、一昨年に柔道整復師の免許が取れて、去年、博士号も取れたので、やっと今年ぐらいから少し楽になるかなと思っています。

大学院の研究に関して言うと、花火のことをもっと究めたいと思ったんです。花火は火薬学という工学の分野で、芸術の分野では認められていないんですね。日本の花火は世界一のクオリティの高さを誇るものなので、あえて芸術的な側面から、花火に関するものとしては第一号となる論文を提出しました。
「花火がどうしてこんなに人から慕われているのか?」とか、「どうして日本の夏の文化とうたわれるまでになったのか?」とか、そういう「?(ハテナ)」があると、どうしても追求したくなるんです。
それと、審判員ももちろんそうですけど、自分が役に立てることは何だろう?役立てることをやりたいと思っているので、審判をやらないかという声が掛かったら、「選手のために、審判を頑張ろうかな」と、なんか無我夢中になっちゃう。周りが見えなくなっちゃう性格なんですね。

それに、私はとても人に恵まれていると思うんです。まず家庭、家族の面に関しても恵まれていますし、花火では職人仲間がいたり、柔道では例えば審判委員会委員長を中心に、審判の仲間がいたりとか。
周りの人たちが、ものすごく励ましてくれますし、いい意味で刺激をたくさんくれる。本当に人に恵まれていると思うんです。だからこそ、いろいろとチャレンジできますし、頑張れると思うんです。

父が「絶対」の天野家

天野安喜子氏私が柔道を始めたのは小学校2年生で、父が柔道場(天野道場)を開くのをきっかけに、私と姉とで第一期門下生になったんです。

おじいちゃん(鍵屋十三代目)も柔道をやっていたんですが、道場を開くことができなくて、十四代目の父がおじいちゃんの遺志を継いで、地域の青少年育成のために開こうということで始めたんです。江戸川区の東小松川というところで、今は私も副館長をやっていて、強い道場とは言えませんが、子供たちはみな素直で元気に通ってきています。

私は父が好きだったので、父が教える道場で練習することは苦じゃありませんでしたが、強化選手になって練習がきつくなると、柔道が一時嫌いになりました。「もう辞めたいな」と思った時期もありました。
でも、天野家は、父が「絶対」という家系なので、父が「辞めてもいいよ」と言うまでは、辞めるわけにはいかなくて。大学を卒業して、父から「もう辞めていいよ」と言われるまで、私なりに一生懸命、柔道に取り組みました。

中・高は「お嬢さん学校」

天野安喜子氏中学・高校は柔道に全く縁のない、共立女子学園に通っていたんですが、大会に出られるように、高校では名前だけの柔道部を作ってもらって。 学校自体は「お嬢さん学校」と言われる学校なんですが、私は、髪の毛が長くなると父から「刈ってこい!」と言われるぐらいベリーショートにしていて、男の子みたいに活発でしたね。
その頃の練習は講道館が中心で、時々、電気通信大学や国士舘に出稽古に行ったりしていました。

柔道の基本は父からしっかり教わっていましたが、競技力に関しては、全日本の監督をされていた柳澤久先生(現、三井住友海上監督)にご指導頂きました。
当時の練習は、とにかく苦しかったです。私にはハングリー精神が全然なくて。「ハングリー精神ってなに?」というくらい、まだ幼かったので、強化選手の練習は正直きつかったです。

うちの父がプレハブでウエイトトレーニング場を作ってくれましたので、ウエイトとか走り込みとか、一般の選手よりは自主トレもしていたとは思うんですけど、それでもやっぱり自分に勝つということ、自分に厳しくすること自体を知らなくて、全部苦しかったです。 やはり日本代表選手になるぐらいになってくると、練習量だけじゃなくて、精神的にもかなり強くなければいけないですから、そのへんの精神面では私はものすごく弱かったように思います。

山口香さんに勝って

私は中学3年のときに、全日本女子体重別選手権大会に出たことで、女子強化選手にも選んで頂いたんですが、特に注目されるようになったのは、高校生のときに山口香さんに勝ってからでした。 当時の山口さんは、神様的存在でしたから、その山口さんに勝っちゃったときは、天狗になりましたね、素直に(笑)。

その大会(都道府県対抗全日本女子柔道大会)前は、もちろん山口さん対策しかしていなくて、山口さんの得意の小内刈をはずして背負投に入るという、それだけをひたすら練習してました。だから、自然にそれが出たんですね。でも、終わったあとには「天野安喜子ってすごい」と自分で思ったりしてしまって。人への感謝の気持ちもなく、どこかで威張っていて人の話も聞いてなかったんでしょうね。
普通だったら、次は自分がいつ倒されるか分からないという恐怖心が出てきてもいいところが、それもなくて。ですから、ガーンと上には上ったんですけど、ガーンと落ちました。そのときに、社会の厳しさを知りましたね。

翌年の全国高等学校柔道選手権大会で1回戦負けしたときには、応援して下さっていた方が手の平を返したように、「もう柔道やめなよ」と言ってきたり。「大会に出て恥ずかしくないのか」と言う人もいました。
高校生としては、やるせない気持ちをどこにもぶつけられず、精神的にはかなり苦しかったです。今になればそれもいい経験ですけどね。

体育会系柔道部

天野安喜子氏大学は、日本大学(日大)に行ったのですが、女子部員はまだいなくて私が第一号。みんな「なんで女子が入ってくるの?」という感じでした。
日大は強くて大きい選手が多いですから、練習でぶつかるだけでもケガをしてしまって。高校生まで人の怖さを感じたことはなかったんですけど、大学に入って「人ってこんなに怖いんだ」というのを勉強しましたね(笑)。
女子は私一人でしたから、最初はもてはやされるんじゃないかと思ったんです。中学・高校が女子校で、初めての共学でしたし。でも、甘かったです(笑)。

練習相手は男子のマネージャーさん。高木(長之助)先生がいらっしゃらないときは、畳1畳だけで「ここでやれ」みたいな感じでした。
次の年から女子が何人か入ってきたので、練習相手もできましたが、それまでの1年は、何と言うか…、不思議でした。初めての世界というか、異文化でしたね。

男性の中に入っていくことには抵抗がなかったんです。うちが花火屋で、男性社会の中で育っていましたし、柔道でも、女子が盛んな時代ではなかったので、町道場もほとんど男の子ばっかりでしたから。でも、やっぱり体育会系柔道部というのは、異文化でしたね。
結局、大学では全然、成績を残せませんでしたが、振り返ってみると充実した4年間を過ごすことはできたと思います。

天野一族は柔道衣を着なくてはならない

私が鍵屋の後継者になることは、小学校2年生のときから決まっていました。うちは三姉妹なんですが、私が2年生のとき、5年生になる姉は劇団に入っていたので芸能界とか、そういった華やかな世界に憧れているところもあって、花火は継がないと。
それで決定されたわけじゃないと思うんですけど、三姉妹の中で、私が一番花火を好きというより、父が好きだったということで、いつも一緒だった。お父さん子だったんですね。
どちらかというと、女性としては育てられていなくて、男の子として男の子っぽく育てられて。父とは波長も合うということで、小学校2年生のときから、自然にそういうことになったんです。

天野一族は基本的には柔道をやる、強くはなくても一応は柔道衣を着るということになっているので、小学3年生になる私の娘も柔道をやっています。
そんなに強いわけではありませんが、一応、去年は江戸川区の柔道大会で2位になりました。たぶん、鍵屋の十六代目になると思います(笑)。

私は、娘は強くならなくていいと思っているんです。でも、柔道をやっていると、人間関係の保ち方とか、人を敬い、頭を下げる習慣とか、日本の風習や文化とか、そういった身に付けなきゃいけないものが身に付けられると思うんです。
それと、人から見られている、一人でも多くの大人から見られているという環境にどんどん出向かせることで、「責任ある行動を取らなくちゃいけない」という意識を持ってもらえればいいなと考えています。正直なところ、強くならなくていいと思うんです、大変だから(笑)。

鍵屋十五代目のプレッシャー

天野安喜子氏 鍵屋十五代目の襲名式を迎えるまでは、父のあとをただ単に継ぐんだという意識だけだったから継げたんですけど、その1年後ぐらいからものすごいプレッシャーを感じるようになりました。

例えば全く関係ないと思われるような教育界から十五代目の考えを聞かせてほしいという質問がきたり、花火で何かあれば、その責任を背負わなきゃいけないですから、そういった社会的な責任の重さを感じたり。 それからは、自分が発する一言一言を、これは公になっても大丈夫か確認してからお話をすることが多くなってきました。あと、笑顔は絶対に絶やさないと心に決めています。

周りはみんな職人ですから、十五代目といったところで、「肩書きがなんぼのもんじゃい」という世界です。私の場合は、幸いにして小学2年生の頃から、跡継ぎと言われていたので、職人との顔合わせはものすごく多かったんです。
それでも、大学を卒業して、正式に現場に入った当初は、父の話を受けて、私が指示を出しても職人さんが全然話を聞いてくれないというようなことがかなり続きました。

花火と審判に関してはとことんこだわる

天野安喜子氏 その後、私が花火作りの修行に数年出て、戻ってからちょっとしたアクシデントがあって、それをクリアしたときに、やっと職人さんたちとの信頼関係ができてきたのかなと。

それから、私に直接「アッコちゃんこれはどうする?」という質問がくるようになりました。それが26、27歳ぐらいですかね、それからはとてもいい環境で仕事させてもらっています。
職人さんというのはみんなすごく熱いんですね。だから、その職人さんが何を言いたいかとか、何を求めて私に質問してきているのかということを、表面だけじゃなくて、きちんと理解して対応することで信頼関係ができていくと思うんです。職人は思ったことをパンパン言ってきますからね、気持ちいいですよ。

花火作りの修業は山梨へ行ったんですが、日大柔道部に在籍していた学生時代以上に、人間関係も含め、いろいろと難しい世界でした。
でも、そこで社会人としてハングリー精神というのに初めて気付いたり、私が成すべきことは何だろうと自身が歩む道を定めたり、学んだことはたくさんありました。 終えたときに「普通だったら10年掛かるところをすごいねぇ」とお誉めの言葉を頂いたのが自分の中では誇りになっています。

花火には色、形、光、音という特質があるので、それをすべて指定してデザインするんですが、修行してきたことで、具体的に「これを作ってもらいたい」と指示できるようになったら、どうしてもこだわりたくなってしまって。
普段の生活ではあまりこだわりはないというか、どっちかというと抜けている部分が多いんですけど、花火のことと柔道の審判に関してはものすごくこだわってしまうんですよね。

安心して選手を送り出してもらえる審判に

今後は審判を通して、日本柔道界に貢献 たぶん、私は性格的に、忙しいと充実するタイプだと思うんです。だから「明日休んでいいよ」と言われたとき、1日ぐらいだったら、マッサージに行ったりとか、子供とずっと触れ合ったりとかするんですけど、「1週間遊んできなさい」と言われたら、たぶん何をやっていいのか分からなくなってしまう。逆にストレスが溜まっちゃうタイプだと思うんです。

社会人になってからは「今日は1日休み」という日は、年間を通して数える程です。
学生時代は、休みはあったし、子供が生まれる前までは自由な時間が欲しいという欲求がものすごくありましたけど、子供が生まれたあとは、仕事と子育ての両立が忙しくて自分の生活リズムがなくなって。 それに慣れてくると、べつに自由な時間がいらなくなってくるんですね。プラス、仕事でも少しずつ自分の位置付けというのが変わってきていますから、重責を負いますが、反面、仕事の中でもストレスを解消できるようになって自分の時間が欲しいとも思わなくなってきました。
逆に時間があると「何かできるんじゃないか」と探しちゃうんですよね。

これからもまだまだやりたいことはたくさんあります。花火ですと、「十五代鍵屋」の印半纏(しるしばんてん)を頂いたときに、「15代目として、何かを残せよ」とも言われています。私は、花火の音が好きなので、音に関連した何かを研究して残していきたいと思っています。 柔道に関しては、審判員としてオリンピックという大舞台には立てましたが、1年が過ぎた今、自分の中では「通過点」だと思っているので、今度は日本柔道界に対して何かお役に立てることを見つけて、貢献していきたいなと思っています。

女性の審判員の質がどんどん高くなり、「男性」「女性」という区別の言葉が聞かれなくなるぐらいにはなりたいなと、そうなってもらえたらいいなと思いますし、「あの審判員にやってもらうと、安心して選手を試合に送り出せるんだよ」と言われるところまでいけたらいいなと思っています。

※2009年10月現在


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