嘉納治五郎の生涯

3. 「教育の父」治五郎

学習院教師時代

学習院教師時代

治五郎は、講道館柔道の創始者としてだけでなく、「教育の父」「体育の父」としても数多くの功績を残している。

23歳の頃、学習院の教師になり、講道館と共に嘉納塾、宏文学院などの学校を開き、知育、徳育、体育のバランスを重視した、人格形成の教育に取り組んだ。

さらにその翌年、神田南神保町に弘文館という学校を創立し、グローバルな時代を見据えて英語教育を進めた。

治五郎は、学習院長からの人望が厚く、26歳の若さで学習院幹事に抜擢され、教授兼教頭になる。日本の教育を発展させるため、海外の教育状況も視察した。

文部省参事官時代

1891年(明治24年)31歳の治五郎は、文部省参事官に任ぜられ、学習院を辞める。漢学者として名高い竹添信一郎博士の娘、須磨子と結婚。その後、熊本第五高等中学校校長に任ぜられ、単身で熊本へ住む。

治五郎とラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

知育、徳育、体育を奨める治五郎は、校長官舎の物置を道場にあて、学生に柔道を教え、熊本にも講道館柔道の種を蒔いた。また、優秀な教師を招くことにも力を入れ、イギリス生まれのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を英語教師として招く。九州大学の創設という壮大な考えを持つが、帰京を命ぜられ、叶えられないまま熊本を去る。

34歳の頃、帰京した治五郎は文部省の検定課長になり、山積した仕事を粘り強く片付け、第一高等中学校(東京大学教養学部)校長にもなった。さらに、高等師範学校長も兼任し、文部省の参事官と合わせて3つの重職を務めながら、教育現場の充実化を図った。

中国の教育を支援

中国の教育を支援

世界平和を見据える治五郎は、社会の発展のためとなれば、日本だけでなく、諸外国へも熱意を持って接した。

1896年(明治29年)36歳の治五郎は、清国から中国初の留学生を受け入れ、日本語、日本語文法などの教育をする。これに続き、中国の教育の基礎を作るため、広東(かんとん)、南京(なんきん)、雲南(うんなん)、甘粛(かんしゅく)など各地から留学生を受け入れた。

宏文学院という留学生のための学校を創り、およそ8,000人の留学生に教育を施し、中国の教育の基礎を作る教育者として巣立たせた。

43歳の頃、清国(中国)に視察旅行の際、治五郎を慕って集まった多くの教え子に歓迎を受けたという。

東京高等師範学校時代

1897年(明治30年)37歳の頃、治五郎は、高等師範学校校長(現筑波大学)に任ぜられる。

高等師範学校は、将来教育者となる学生の学ぶところであるため、常に優れた人物を教授陣に加え、質の高い教育を心がける他、高等師範学校学生の体育教育向上のため、柔道・剣道は一流の教師を招き、水泳も奨励した。

また、全寮制を取り入れ、集団の中で自己を磨かせる方針を進め、日本の教育の質を高めるためにはどうしたら良いかを常に念頭に置いていた治五郎は、最善と思われることであれば、最高府である文部省に嘆願し、高等師範学校の教育を3年から4年に延長したりなど、優れた教育者の育成に熱意を持って取り組んだ。


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