嘉納治五郎の生涯

2. 「柔道家」治五郎

柔術を始めるきっかけ

柔術を始めるきっかけ

治五郎は、14歳で育英義塾で寄宿舎生活に入った。そのとき、力の強い先輩の横暴な態度でいじめられ、悔しい思いで歯を食いしばる日々を過ごす。

学科では決して劣らなかったが、ひ弱な身体だった治五郎は、先輩や同級生から馬鹿にされ、非常な屈辱感を味わいながら、たくましい肉体がほしいと心から願うようになった。

さらに官立英語学校に入学した頃、再び弱い身体であることを思い知らされ、強くなりたいという思いがますます湧き上がり、以前聞いたことのある柔術に関心を持ち、知り合いを尋ねる。

柔術修行時代

柔術修行時代

1875年(明治8年)15歳の頃、初めて柔術の門を叩くが断られる。治五郎が18歳になり東京大学文学部に在学中のとき、「整骨をする人は、むかし柔術家だったそうだ。」ということを耳にし、骨接ぎや整骨院などの看板を探し歩く。
訪ね歩いたあげく、整骨師八木貞之助の診療所を見つけ、藁にもすがる思いで飛び込むが、老齢の八木に一旦は断られる。それでもあきらめず、治五郎は身体を鍛えたいという願いを熱心に伝えた。

ついに、熱意を汲んだ八木から柔術家の福田八之助を紹介してもらい、そこに入門して初めて柔術を学ぶ。福田道場は、楊心流(ようしんりゅう)と真之神道流(しんのしんとうりゅう)の二流を合わせた流派であった。

19歳の頃、アメリカの第18代大統領グラント将軍が日本に立ち寄る。将軍をもてなす方法として日本の武術が挙げられ、柔術では福田道場が抜擢される。治五郎は、グラント将軍の前で、乱取りを披露。グラント将軍に対し、柔術の素晴らしさを強烈に印象付けた。

その後、福田八之助が他界。熱心に道場に通って稽古をしていた治五郎は、遺族より伝書を託されて福田道場の責任者となり指導を行なった。

更なる修行のため、天神真楊流(てんじんしんようりゅう)の磯正智に入門。磯正智に認められ、師匠に代わって門弟の稽古をつけた。

柔道研究時代

21歳の頃、楊心流の戸塚一門が東京大学講堂で柔術を披露したとき、在学中の治五郎は飛び入りで参加。柔術の様々な流派にそれぞれの良さがあることに、初めて気付く。そのことが治五郎にとって、「講道館柔道」の創始のきっかけとなった。

その翌年、磯正智が他界。学んだ二つの流派の良さを取り入れ、さらに柔術を発展させるため、他流派の勉強を始める。二人の師匠を亡くした治五郎は、知人をつたい起倒流(きとうりゅう)の達人と知られる山本正翁に会って弟子入りを嘆願し、山本に飯久保恒年を紹介してもらい入門する。

1882年(明治15年)22歳になった治五郎は、学習院の教師になり自活するようになると、永昌寺に家を借りて道場を開く。稼いだお金で12畳の道場「講道館」を新設。「柔術」を「柔道」と改め、「講道館柔道」を創始する。弟子を養い、柔道の指導を行ないながら、知育、体育、徳育としての、柔道の研究を深める。

翌年、神田南神保町弘文館付属の土蔵に講道館道場を移し、さらに、麹町上二番町に移す。治五郎は、柔術各流派の優れた点をもとに、さらに相手の身体を崩して投げる「くずし」の研究を重ねていった。この頃、飯久保恒年から起倒流の免許状が与えられ、あらゆる伝書を譲り受ける。

柔道研究時代

27歳になった治五郎は、治五郎の柔道教育に理解を持つある子爵の好意により、富士見町の広い屋敷に移り住み、講道館道場を移す。この頃が最も盛んな研究時代であった。相手の身体を崩して投げるという講道館柔道が人々に認められ始め、入門者は年々増えた。このころ警視庁武道大会などで門人が活躍し、世の中に講道館柔道の名をとどろかせる。

さらに、1889年(明治22年)29歳の頃、治五郎は、ヨーロッパ教育事情視察へ向かうインド洋航海の船上で海外の人に柔道を披露し、小さい者が大きい者を豪快に投げる柔道が脚光を浴びた。日本人以外にも講道館柔道の強さを知らしめることになった。

1893年には、小石川下富坂町に百畳敷きの講道館を新築。初めて外国人の入門者を受け入れ、それ以来、海外から正式に入門する者は増えていった。


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