嘉納治五郎とオリンピック

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東洋人で初めてオリンピック委員(以下IOC委員)になったのが嘉納治五郎です。
治五郎はIOC委員の活動を通じて、日本におけるスポーツ振興とオリンピックの認知度を高め、東京でのオリンピック開催の実現に貢献しました。IOC委員の活動に力を注いだのには、「スポーツによる世界平和を実現させたい」という思いがあったからです。
IOC委員としての治五郎の活動については「嘉納治五郎の生涯」の章で紹介しましたが、この章ではより深く紹介しているので、ぜひご覧下さい。

東洋初のオリンピック委員となった嘉納治五郎

東洋初のオリンピック委員となった嘉納治五郎

1894年(明治27年)、国際オリンピック委員会(以下IOC委員会)が発足しました。

発足のきっかけとなったのは、フランスの教育者「ピエール・ド・クーベルタン」(以下クーベルタン男爵)の「古代ギリシャで行なわれていた競技大会を、スポーツの祭典として現代に蘇らせるべきである」という主張です。この主張に賛同した者たちがIOC委員会を発足し、古代の競技大会を近代オリンピックとして復活させます。

クーベルタン男爵とIOC委員会は東洋にもオリンピックを普及させるために、IOC委員としてふさわしい人物を東洋人のなかで探しました。そんな中でクーベルタン男爵は、柔道を通じて様々な活動を行なう東洋人「嘉納治五郎」に目を付けると、手紙を送ってIOC委員就任を依頼します。

その手紙に書かれていた、「西洋と東洋が共に協力してオリンピックに取り組めば、平和な世界への近道になるだろう」というメッセージと、「勝利者となるかどうかではなく、競技会に出るためにしっかりと努力する過程、正々堂々と奮闘すること」というオリンピックの精神は、まさしく治五郎が柔道を通して日頃から思い行動してきたことと一致していました。

この手紙に感動した治五郎は、東洋初のIOC委員という大役を引き受けたのです。そして、様々な問題を乗り越え、日本のオリンピックへの初参加が決定しました。

日本のオリンピック初参加に向けて、嘉納治五郎の取り組んだ課題

日本のオリンピック初参加に向けて、嘉納治五郎の取り組んだ課題

日本がオリンピックに参加するにあたって、2つの問題がありました。

ひとつ目は、オリンピックが国民に浸透していなかったこと。ふたつ目は、海外のスポーツが野球とテニスしか普及していなかったことです。

これらの問題を解決するために、まず治五郎はオリンピックを国民に知ってもらうことを活動目的とした「大日本体育協会」を設立し、自ら会長を務めました。次に、オリンピックの出場種目を国民に馴染みのある陸上競技に絞ることにします。さらに、代表選手を見つけるために文部省(現:文部科学省)に協力を求めましたが、断られてしまったのです。

そこで治五郎は「大日本体育協会」を通じて、代表選手を決める予選会を行ないました。

嘉納治五郎の見た日本スポーツ界の大きな一歩

代表選手を決める予選会では、金栗四三(かなくりしそう)選手と三島弥彦選手が、それぞれマラソンと短距離走で好成績を出しました。特に金栗選手は、当時のマラソンの世界記録を大幅に上回るタイムを出したのです。両選手は日本代表に選ばれて、国民の期待を背負って大会に臨みます。ストックホルム・オリンピックに日本選手が初出場を果たし、治五郎も日本選手団の団長として同行。

しかし、両選手ともメダルには手が届きませんでした。三島選手は惜しくも予選敗退、金栗選手はマラソン足袋を穿いて競技に臨みましたが、マラソン大会当日はストックホルムに記録的な熱波が襲来し、気温が40度近くという過酷な状況でした。

ランナーの棄権が続出する中、金栗も18km付近で日射病のため倒れてしまったのです。金栗は思うような結果を残すことができず、後援会まで立ち上げて応援してくれた治五郎に合わせる顔がないと考えましたが、治五郎はこの結果を日本のスポーツ界にとって大きな一歩と評価し、全力を尽くした2人の選手を激励します。今回の経験を次のオリンピックに活かすことも重要だと話す治五郎の先には、すでに東京でのオリンピックも視野に入っていたのかもしれません。

なお、大会時に治五郎はクーベルタン男爵と初体面し、2人は柔道の話をしました。治五郎は「柔道は体だけではなく心を鍛えるのにも最適のスポーツである」と、柔道の素晴らしさをクーベルタン男爵に説きます。加えて、修行の過程で心身を鍛錬し、自己を完成することが大切だと治五郎が語り、それが他人をも完成させることに繋がることを話したところ、「人類共栄」という同じ志を持つクーベルタン男爵がそれに共感し、2人は意気投合したのです。

「これからも協力して、オリンピックを通じての世界平和を目指そう」と、2人は気持ちを固めました。

オリンピックで日本選手が活躍! 嘉納治五郎はオリンピックの東京誘致を決意

オリンピックで日本選手が活躍! 嘉納治五郎はオリンピックの東京誘致を決意

ストックホルム・オリンピック以降、国民のスポーツへの関心は高まっていき、日本は初出場の1912年(大正1年)から、1936年(昭和11年)までオリンピックに参加し続けました。

強い選手が育ち、念願だった表彰台に上がります。1936年(昭和11年)のベルリン大会の200m平泳ぎでは、前畑秀子選手が女子初の金メダルを獲得。

実況アナウンサーの「前畑、がんばれ!」という気持ちのこもった応援は、現在でも語り草です。また、棒高跳びで2位となった西田修平選手と3位となった大江季雄選手は、互いの健闘を讃えてそれぞれのメダルを繋ぎ合わせます。この「友情のメダル」のエピソードもベルリン大会で生まれました。

国民のオリンピックへの関心が高まっていくと、「オリンピックを東京で開催してほしい」という声も出てきます。

この声を受け止めた治五郎はクーベルタン男爵にオリンピックの東京誘致について相談すると、賛同を得られました。そして、東京市会(現:東京都議会)が東京オリンピック開催の議案を可決すると、治五郎は「オリンピックの誘致を必ず成し遂げよう」と、気持ちを固めます。

しかし、クーベルタン男爵は1937年(昭和12年)に、東京オリンピックの決定を待たずしてこの世を去ってしまいました。

嘉納治五郎の念願である東京オリンピック開催が決定!

嘉納治五郎の念願である東京オリンピック開催が決定!

オリンピックの東京誘致は、軍国化へと進む日本の世情からすると、厳しい状況でした。日本は満州事変をきっかけにして国際連盟を脱退し、さらにワシントン条約を破棄。そして、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアによる五ヵ国の海軍軍縮会議も脱退します。

さらに、当時オリンピック開催地の有力な候補であったローマは1908年(明治41年)にオリンピック開催地となったにもかかわらず、財政的な理由で、開催地の権利を返さなくてはならない苦い過去がありました。そのためイタリアも日本同様に招致活動に専念しており、是が非でもオリンピックを実現しようとしていたのです。

そのような厳しい状況を打開するべく、治五郎はIOC委員の副島道正と、駐イタリア日本大使の杉村陽太郎を通じて、イタリアのムッソリーニ首相にある要請をしました。その要請とは、首都・ローマへのオリンピック誘致活動を撤退することです。「オリンピック開催地の第一候補と噂されるローマが誘致活動を中止してくれれば、日本にもまだチャンスがある」と、治五郎は考えたのでした。

ムッソリーニ首相との会談の場で副島と杉村は、次のオリンピックが開催される1940年(昭和15年)は日本にとって皇紀(神武天皇が即位した年を元年とする紀年法)2600年にあたる記念すべき年であることをアピールします。

また、「東京オリンピックの成功によってオリンピックへの注目が世界中で高まったときこそ、ローマはオリンピックの開催地となるべきです」と、進言したのです。ムッソリーニ首相は副島と杉村の話に納得すると、イタリアのオリンピック誘致活動の撤退を約束します。

その後のIOC総会で、イタリアはローマでのオリンピック開催を断念するという宣言をしたのち、「ローマよりも日本の東京はどうか」と提案しました。しかし、他国から「アジアの端にある日本でオリンピックを開催すると、渡航日数が長くなって、渡航費用が高額になる」という反対意見が出ます。

この意見に対して治五郎は「日本の選手たちも必死の思いで費用を工面してオリンピックに参加している。だから、渡航費用を理由にして東京オリンピックの開催を否定するのは、オリンピックの国際化を目指す意志に反している」と、反論。この反論は多くのIOC委員の心に響いたのです。

そして、ドイツのベルリンでオリンピック開催地を決定する決選投票が行なわれました。投票の結果、日本は開催国となり、東京オリンピックの開催が決定します。IOC委員の多くは軍国化を進める日本に不信感を持ちながらも、治五郎の熱意にうたれて日本に票を投じたのです。治五郎と国民の夢がついに実現しました。

東京オリンピックを前にこの世を去った嘉納治五郎

東京オリンピックを前にこの世を去った嘉納治五郎

東京オリンピックの決定から約2年後、カイロでIOC総会が開催されました。この総会でオリンピックの東京開催が再確認されると、治五郎はラジオを通じて「オリンピックを通じて平和な世界を実現しよう」と、国民に語りかけたのです。

総会後も治五郎はすぐには帰国せず、IOC委員として精力的に動きました。アテネで行なわれたクーベルタン男爵の慰霊祭に出席したのち、イタリア、フランス、アメリカなど各国でIOC委員と会って、日本でのオリンピック開催に同意した旨を感謝すると同時に「東京オリンピックに多くの選手を送ってほしい」と、要請したのです。まさに「礼に始まり礼に終わる」という柔道の精神を重んじる、治五郎ならではの行動と言えるでしょう。

各国の訪問を終えてようやくカナダのバンクーバーから帰路に就いた治五郎ですが、船中で長旅の疲れから肺炎にかかり意識を失います。そして、太平洋上で77歳の生涯を終えるのでした。

念願の東京オリンピックを見ることなく、この世を去った治五郎。「柔道の形を写真に撮るのは良いことだ…」という最期の言葉からは、臨終のときまで柔道のことを考えていたのが分かります。

嘉納治五郎亡きあとの日本の柔道

嘉納治五郎亡き後の日本の柔道

治五郎の死後、日中戦争の泥沼化により国力を消耗した日本は東京オリンピックの中止を決定します。治五郎のオリンピック誘致にかけた思いを考えると、悔しい決定と言わざるを得ません。

ときは移り、第二次世界大戦の終結後、アメリカ軍によって日本では柔道や剣道が禁止されました。これにより日本の武術は危機を迎えましたが、柔道は講道館の門下生によって継承されていったのです。

戦後からの復興が進んだ1948年(昭和23年)に、全日本柔道選手権大会、全国警察官柔道大会が行なわれると、さらに翌年、全日本柔道連盟が結成されました。そして1950年(昭和25年)には、全国高校体育連盟に柔道部が発足します。

これにより柔道はかつての勢いを取り戻し、全国的な大会が毎年開催されるまでに発展を遂げました。

世界中に愛されるようになった嘉納治五郎の残した柔道

世界中に愛されるようになった嘉納治五郎の残した柔道

かつて治五郎とその弟子たちは柔道を海外に伝えようと活動しました。その活動により海外に伝わった柔道は、世界規模で大きな発展を遂げています。

1948年(昭和23年)に欧州で柔道連盟が結成されると、1952年(昭和27年)には国際柔道連盟という、より大きな組織に変革しました。

この連盟に日本が参加すると、連盟主催の第一回世界柔道選手権大会が東京で開催されたのです。さらに、治五郎の次男である嘉納履正(かのうりせい)は、全日本柔道連盟の初代会長となり、東京オリンピックにて、柔道を正式種目として扱えるよう尽力しました。

それ以降も世界中で柔道が根付いていくと、ついに1961年(昭和36年)にオリンピックの正式種目に決定します。治五郎が亡くなってから23年目のことです。

そして、1964年(昭和39年)には、一度は中止になった東京オリンピックが24年のときを経て開催されました。東京オリンピックは、正式種目として柔道の競技が行なわれた初めての大会です。

治五郎が柔道を確立してから約140年経った現在、国際柔道連盟に加盟する国は約200ヵ国となっています。治五郎の願い通り、柔道は世界中に広まり、多くの人々に愛されるようになりました。

嘉納治五郎師範 没後80年式典・偲ぶ会

2018年4月28日(土)に「嘉納治五郎師範 没後80年式典・偲ぶ会」が行なわれ、東建コーポレーションから今回の式典に合わせ特別に制作された日本刀(刀剣)が献納されました。

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こちらは、柔道チャンネル「嘉納治五郎とオリンピック」のページです。嘉納治五郎がオリンピック委員となったとき、日本ではオリンピックが認知されていないと同時に、柔道は競技種目として登録されていませんでした。しかしそんな逆境でありながらも、治五郎は「スポーツによる世界平和を実現させたい」という願いを胸に、オリンピック委員として生涯を通して活動を続けたのです。そんな逆境でこそ手腕を見せた、治五郎のオリンピック誘致の軌跡をご覧下さい。柔道チャンネルは柔道施設の検索や柔道情報の発信を通じて、日本の柔道を応援しています。

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