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「柔道の父」嘉納治五郎

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「柔道の父」嘉納治五郎

柔道とは投げ技を主体とした武術です。体の鍛錬や人格形成を目的としたスポーツとしての側面も持っており、愛好者は世界中にいます。

その柔道の創始者が嘉納治五郎です。日本古来の武術である柔術を磨き上げて、柔道に進化させました。

治五郎は柔道を強くなるために身に付けるだけではなく、「教育」や「平和」に役立てようと生涯をかけて奔走します。そして、柔道の総本山・講道館を設立したり、柔道を日本のみならず世界にまで普及させたりといった、数々の偉業を成し遂げました。

「柔道の父」である嘉納治五郎について、こちらのページでは掘り下げていきます。

目次

嘉納治五郎の生涯①幼年期

人生は幼年期にあった出来事に大きく左右されると言われます。では、偉人である嘉納治五郎の幼年期はどういったものだったのでしょうか。

治五郎の幼年期を語るうえで欠かせないのが、父「治朗作(じろさく)」と母「定子」です。両親と治五郎の関係性、及び両親の教育はどうだったのかを紹介していきます。

嘉納治五郎に「人に尽くすこと」を教えた母「定子」

嘉納治五郎に「人に尽くすこと」を教えた母「定子」

治五郎は1860年(万延元年)10月18日に兵庫県で生まれました。父は嘉納治朗作、母は定子。治五郎は2人の三男にあたります。

嘉納家は神戸で酒造業を営む裕福な家でした。ただ、父の治朗作は酒造業を継ぐことはせず、東京まで船で物を運ぶ運搬業を仕事にします。治朗作が運輸業で多忙な身であったため、治五郎の幼少時の教育は主に母である定子が行ないました。

息子への教育でなにより重視したのは「人に尽くすこと」。例えば、治五郎が家に友達を連れてくると、定子は一番おいしいお菓子を息子ではなく友達にあげました。身内を差し置いてでも客をもてなすことにより、母は「人に尽くすこと」の模範を息子に示したのです。

また、治五郎が人への配慮を欠いたときは、反省するまで決して許しませんでした。定子自身も、困っている人がいれば、自分自身のことは二の次というくらい、親身になって支えてあげたと言われています。定子は優しく思いやりのある母として、多くの時間を治五郎と過ごしました。そんな、人のため、社会のために尽くす母親の姿は、治五郎が柔道普及やオリンピックを東京で行なうために全力を注ぐ姿と重なります。治五郎自身の人柄に大きく影響したと言えるでしょう。

教育熱心な定子でしたが、治五郎が9歳のときに他界します。しかし、治五郎の中で定子の存在は決して消えませんでした。

のちに治五郎は世の中へ献身的に尽くして、母の教えである「人に尽くすこと」を実行してみせたのです。

嘉納治五郎に「新しいものを積極的に取りこむこと」を教えた父「治朗作」

嘉納治五郎に「新しいものを積極的に取りこむこと」を教えた父「治朗作」

母を失った治五郎は、東京で父「治朗作」と暮らすことになります。当時の治朗作は、明治政府に雇われて、東京で船を使った運輸業を営んでいました。明治政府に雇われたのには、運輸業で海軍大臣・勝海舟に認められて、明治政府に紹介された経緯があります。

治朗作は「新しいものを次々と取りこむ」探究心旺盛な人物で、東京でも異国から伝わってきた学問や文化を積極的に学んでいました。治五郎は父のそんな姿を見ながら成長します。柔術の修業時代に治五郎が他流派の長所を次々と取り入れていったのは、探究心旺盛な父の影響があったからでしょう。

こうして幼年期の治五郎にスポットを当ててみると、両親から素晴らしい教えを受けたのが分かりますね。

嘉納治五郎の生涯②少年期から青年期

嘉納治五郎の生涯2少年期から青年期

幼年期の終わりに神戸から東京に移り住むことになった嘉納治五郎。

少年期を迎えた治五郎は勉学に励み、成績を伸ばしていく一方で、いじめに苦しみます。体格に恵まれなかったために、腕力でいじめをはね返すことができませんでした。自分の不甲斐なさに悩んでいたときに出会ったのが「柔術」です。

柔術を習得すれば、体の小さな自分でも強くなることができる、そんな希望を抱いた治五郎は、少年期から青年期にかけて柔術の修業に没頭していくのでした。

嘉納治五郎、柔術に目覚める

嘉納治五郎、柔術に目覚める

1873年(明治6年)、13歳になった治五郎は育英義塾(東京都港区にあった学校)に入ると、成績をどんどんと伸ばし、あっという間に他の生徒を抜いて優秀な成績を収めるようになりました。

ところが、それを気にくわない生徒たちは、治五郎をいじめるようになってしまうのです。

当時、治五郎は小柄(成人のときに158cmと言われているので、このときは145〜150cmと予想される)な少年だったので、まったく歯が立ちません。

自分の弱さと力でねじ伏せる古い考えがまだ残っていることに、治五郎はショックを受けます。そんなとき、治五郎は体が小さくても強くなれる武術「柔術」の存在を知ったのです。

しかし、時代は文明開化を迎えて柔術はすでに古い武術として扱われていました。当時、家によく出入りしていた元武士だった男がかつて柔術を学んでいたことを知った治五郎は、柔術の指導を男に頼みますが「時代遅れの柔術なんて学ぶ必要はない」と、断られます。治五郎は仕方なく、書物を通じて独学で柔術を学ぶのでした。

1877年(明治10年)、17歳になった治五郎は「整骨師には柔術経験者が多い」ということを知ると、あちこちの整骨師に「柔術を教えて下さい」と、頼みに回ります。なかなか教えてくれる整骨師が見つからない中で、整骨師「八木貞之助」に出会いました。

八木の第一印象を「髪も髭も真っ白なのに、体格は驚くほど強靭だった」と、のちに治五郎は語っています。

八木は柔術を志す若者の登場に喜んだものの、「柔術を教えるには自分は年を取りすぎている」と、治五郎の師になることを断りました。それでもあきらめない治五郎に対して八木は、柔術家の福田八之助宛に紹介状を書いてやります。紹介状を読んだ福田八之助は、治五郎に柔術を指導することを承諾。治五郎はついに柔術の師を見つけたのです。

強さを得た嘉納治五郎、「柔術」は「柔道」へ

強さを得た嘉納治五郎、「柔術」は「柔道」へ

治五郎が福田八之助の教えを受けるために入門したのは、のどを絞めたり、押し伏せたりする攻撃中心の柔術を得意とする「天神真楊流(てんじんしんようりゅう)」の修心館(しゅうしんかん)です。この道場は整骨院もかねていたため、道場内が患者さんの待合室になることもありました。

もともと負けん気の強い治五郎は、何度も投げられながらも立ち上がり、柔術の技を体で身に付けようと必死に取り組みます。また、書物を読み漁って、知識面でも研究を重ねました。

着実に実力を付ける治五郎は、次第に柔術を始めたきっかけである「いじめられないように強くなりたい」という気持ちが、薄くなっていることに気づきます。柔術の中に人間の成長につながる何かがあると、治五郎は確信したのです。

1879年(明治12年)の治五郎が19歳のときに、アメリカのグラント第18代大統領が来日し、グラント氏に披露するための柔術演武が開催され、渋沢栄一の依頼を受けた治五郎も参加しました。

その演武を観戦したグラント氏は武術の中でも、とりわけ柔術に興味を示したという記録が残っています。また、海外の要人に技を披露する場に招かれるということは、当時としては極めて稀な機会であったことは想像に難くありませんが、このエピソードからも、すでにこの時点で治五郎の柔術の技術が極めて高いレベルに達していたことがうかがえると言えるでしょう。

その後、師である福田八之助が急逝。悲しみに暮れる治五郎ですが、遺族より伝書(秘伝などを記した書)を託されると、福田道場の指導者となり、師の意志を継ぐことを決意します。治五郎は指導者となったことにより、以前にも増して柔術の修業に没頭していったのです。

1881年(明治14年)、21歳になった治五郎は、起倒流(きとうりゅう)の飯久保恒年(いいくぼつねとし)師範に師事して、未知の流派の体得に励むようになりました。起倒流は天神真楊流とは異なる特徴を持っていたので、研究に熱が入ります。そして、厳しい修業を乗り越えた治五郎は、起倒流の免許皆伝を得るのでした。この頃の治五郎は、柔術家の間で噂になるほど強かったそうです。

あるとき、東京大学講堂で楊心流(ようしんりゅう)の戸塚一門が武術を披露したときのことでした。在学中だった治五郎は飛び入りで試合に参加することになります。ここで治五郎が学んだことは多く、柔術の様々な流派に、それぞれの良さがあることに初めて気づきます。また、柔術を行なうことで、精神力や勝つために工夫を凝らす心構えから人間的にも成長することができると、治五郎は感じていました。

人の道を学ぶ術。柔術はもっと多くの人に開かれるべきだと、治五郎は考えるようになります。

そんな治五郎にも悩みがありました。「明治になった今、柔術は古いものとして認知されてしまっている。今のままでは廃れていく一方ではないのか」。悩んだ末に、治五郎はある結論に達します。「柔術が時代に受け入れられるように、自分の手でつくり変えよう」。

こうして治五郎が考案したのが、柔術にスポーツとしての要素を取り入れた「柔道」です。治五郎は自分の給料をほとんどつぎ込んで東京の下谷北稲荷町にある永唱寺というお寺の一画に「講道館」と名付けた道場を設立しました。当時わずか23歳の治五郎は、柔道の普及に向けての第一歩を踏み出したのです。

嘉納治五郎とその弟子たちを通じて柔道は世界へ

嘉納治五郎とその弟子たちを通じて柔道は世界へ

講道館を設立すると、治五郎は弟子たちと共に柔道の研究に明け暮れました。

柔術の各流派が持つ奥義を研究することに加えて、力学といった学問の観点からも柔道を研究したのです。その結果、のちに講道館柔道の特色となる「くずし」を会得することに成功します。

当時の治五郎は講道館の指導係を務めつつ、東京の学習院(華族のための教育機関。現在の学習院大学)で教職にも就いていました。29歳になると、西洋の教育事業視察のために、ヨーロッパに派遣されます。そして、ヨーロッパへ向かう船上で、柔道の形や技を外国人たちの前で披露したのです。

外国人たちは、小柄な治五郎が大柄な者をさらりと投げる様子に衝撃を受けて、講道館柔道に興味を持ちます。

また、治五郎の弟子たちも日本を飛び出して世界中で柔道の実演を披露したことにより、柔道の存在は海外に少しずつ伝わっていきました。講道館柔道が、海外でも知られるようになると、来日する各国の大使、公使、軍人、教授らは、講道館柔道を見学するようになり、1893年(明治26年)には、講道館にイギリス人が入門してきます。さらに講道館柔道のすばらしさに惹かれたアメリカやインド、中国、フランス、カナダといった国の人々も講道館の門を叩きました。海外へ柔道が広まった大きな理由には、講道館で修行を積んだ門下生達が、母国に帰ってからも、柔道に取り組み続けたことによって、世界中で普及していったのではないかと考えられています。

治五郎の願いどおり、柔道の競技者は世界中に広まり、柔道が海外で普及していくと同時に、世界各国から、日本の柔道指導者を自国へ派遣してほしいという声が高まり始めたのです。治五郎はその声に応え、優秀な指導者を海外へ送りだします。しかし、そこには様々な難題が立ちはだかりました。

そのひとつに、講道館柔道の精神を、他国の文化でもうまく伝えることができるのか?という点があります。講道館柔道は、勝敗にこだわり技の強さだけを求めることが目的ではありません。相手を敬い、感謝することで、助け合う心を育み、自分と他人が共に良い世の中にしようとする「自他共栄」という精神こそ柔道の魅力なのです。柔道による人格形成にその意味があるため、育つ環境や文化の異なる海外の人に、その極意を伝えることはとても困難なことでした。

しかし、治五郎はあきらめず柔道をさらに深く研究し、日本国内で優秀な柔道家を育成します。必要な資金をなんとか調達し、文武両道を究めた優秀な人材を海外へ派遣することに成功するのです。

嘉納治五郎の生涯③壮年期

柔術修業を経て「柔道」を確立し、講道館を設立した嘉納治五郎。

壮年期に達すると、柔道の普及に努めながら、「教育の発展」や「オリンピックによる世界平和の実現」にも力を注ぎました。そして、晩年にはこれまでの人生の集大成とも言える偉業「オリンピックの東京誘致」を成し遂げるのです。しかしそれから間もなくして、治五郎に運命のときが訪れるのでした。

嘉納治五郎の運命の人「竹添須磨子」

31歳になった治五郎は、東京を離れて熊本へ行く決心をしていました。当時の治五郎は文部省参事官という官職に就いており、文部省(現在の文部科学省)から熊本にある第五高等中学校(現在の熊本大学)の校長を務めるようにと命じられていたからです。

そんなとき、知人の紹介を通じて、漢学者の竹添信一郎の娘「須磨子」と出会います。治五郎の姉をはじめとした周囲の人々が、独身の治五郎がはやく結婚できるようにと、素敵な女性を見つけ出して、引き合わせてくれたのです。

2人の顔合わせの場で、治五郎は仕事の都合でじきに熊本に行くことを話題に出しました。すると、そこに居合わせた須磨子の父親は「熊本は竹添家の故郷だ」と、驚いたのです。さらに須磨子の父である信一郎が、治五郎の父・治朗作とも縁深い勝海舟と親しい間柄であったこともあり、この不思議な偶然に、治五郎と須磨子は縁を感じたことでしょう。それから2人は交際を始めて、結婚に至りました。

2人は結婚式の翌日こそ浦賀の別荘で一緒に過ごしますが、間もなくして治五郎は熊本に出発します。須磨子は東京に残り、夫に代わって講道館の門下生たちの世話をしました。多忙な夫をサポートしていく良き妻となったのです。

教育者として多忙な日々を送った嘉納治五郎

教育者として多忙な日々を送った嘉納治五郎

熊本第五高等中学校の校長となった治五郎は、教育に柔道を取り入れました。校長官舎にあった物置を道場にして、学生に柔道の指導をします。この活動により、熊本を起点に九州で柔道が広まりを見せたと言われます。

また、優秀な教員を確保することにも力を入れ、イギリス生まれのラフカディオ・ハーンを英語教師として採用しました。ラフカディオ・ハーンとは、「怪談」の作者として知られるあの小泉八雲のことです。

熊本の教育発展に没頭していく治五郎は、九州大学の創立を思いつき、実現に向けて動き出します。ところが、文部省より帰京するようにとの命を受けたので、九州大学創立を実現できないまま熊本を去るのでした。

東京に戻った治五郎を待っていたのは多忙な日々です。文部省での仕事に加えて、またしても高等中学校の校長を任せられます。そして1887年(明治20年)、治五郎が37歳になると高等師範学校(現在の筑波大学)の校長に就任。ここでも治五郎は精力的に仕事に取り組み、高等師範学校の教育を3年から4年に延長するといった改革を実現しています。

同年には、仏教哲学者(都市伝説などの迷信を論破するための学問と言われる)であり、「妖怪」の研究者としても知られる井上円了が、のちに東洋大学となる「哲学館」を開くと、治五郎もそこで講師を務めるのです。さらに治五郎はそこで、漢学者の棚橋一郎と知り合い、2人で倫理学項目を担当した『哲学館講義録』を完成させました。

30代の嘉納治五郎は教育の現場で大活躍を果たしたのです。

嘉納治五郎が開校した「宏文学院」

嘉納治五郎が開校した「宏文学院」

1902年(明治35年)、42歳となった治五郎は柔道家としてだけではなく教育者としても有名になりました。

当時、日本の教育者との交流を求めていた中国の官僚「張之洞(ちょうしどう)」から、治五郎と会談したいという声がかかります。会談の場で、張之洞は留学生を受け入れてほしいと要請しました。日本の産業や学問を留学生に学ばせて、祖国に持ち帰ってほしかったからです。

この要請を引き受けた治五郎は「宏文学院」という学校を設立し、そこに留学生を受け入れました。勉強と体の鍛錬の両立をモットーにしていた治五郎は、学問に加えて柔道も留学生に教えます。国境を越えて柔道を伝えることに、治五郎は喜びを感じたことでしょう。

しかしこの頃、日本軍の大陸侵略政策が中国に見抜かれて、中国で日本への抗議運動が始まると、両国間で緊張が高まりました。この世情を受けて、宏文学院は外務省より閉鎖を命じられます。苦渋の決断により閉鎖を受け入れる治五郎ですが、留学生を含めた在校生のために、宏文学院で最後となる卒業式を行なうのでした。

治五郎は留学生と接する中で、国や言葉を超えたつながりを感じたのです。

国際オリンピック委員となった嘉納治五郎とマラソンランナー「金栗四三」

フランスの教育者「ピエール・ド・クーベルタン」(以下クーベルタン男爵)が「古代ギリシャで行なわれていた競技大会を、スポーツの祭典として現代に蘇らせるべきだ」と提唱すると、彼に賛同した者たちが国際オリンピック委員会(以下IOC委員会)を発足しました。IOC委員会はクーベルタン男爵の理想に従って、古代の競技大会を近代オリンピックとして復活させます。

IOC委員会とクーベルタン男爵は活動の幅を広げるために、東洋人の中でIOC委員としてふさわしい人物を探しました。そんな中で、クーベルタン男爵が目を付けたのが、柔道を通じて様々な活動を行なう東洋人「嘉納治五郎」です。クーベルタン男爵は治五郎に手紙を送り、IOC委員への就任を依頼します。

手紙に書かれていたオリンピックの理想「スポーツによる世界平和の実現」に、治五郎は共感してIOC委員を引き受けました。そして、スウェーデンのストックホルムで開催される第5回国際オリンピックに日本の参加が決定すると、治五郎はオリンピックの成功に向けて動き出します。

ところが当時の日本では、西洋のスポーツが野球とテニスしか認知されていなかったうえに、オリンピック自体が国民に浸透していませんでした。そこで、治五郎はオリンピックを国民に知ってもらうことを活動目的とする「大日本体育協会」を設立。また、オリンピックで参加する競技も、国民に分かってもらいやすい陸上競技に絞ることにしたのです。

1911年(明治44年)、治五郎は東京の羽田海岸グラウンドでオリンピックの予選会を行ないました。最も注目されているマラソンに参加したのは約200名です。その中で、治五郎が校長を勤めていた東京高等師範学校の在学生「金栗四三(かなくりしそう)」選手が、当時の世界記録を27分も上回る記録を出します。

金栗選手は代表に選ばれますが、開催地であるストックホルムまでの渡航費を聞くと代表を辞退しました。渡航費の1,800円は現在の500万円に相当する大金だったので、金栗選手が代表を辞退したのは無理もない話でしょう。それでも、治五郎は決してあきらめません。有望な選手を送りだせない悔しさが、かえって治五郎のやる気に火を付けます。

何が何でも金栗をストックホルム・オリンピックに連れて行くために、治五郎は自ら発起人となって、金栗選手の後援会を立ち上げ、寄付金を募りました。そうして集まった寄付金で、金栗選手はオリンピックに参加できるようになったのです。

迎えたオリンピックのマラソン競技で金栗選手は全力を尽くすものの、期待されたような結果を残すことはできませんでした。それでも、オリンピックという世界的な舞台で日本人選手の奮闘する姿は、国民に感動を与えたのです。

日本人選手が初めて参加したストックホルム・オリンピックは、日本国民がオリンピックに関心を抱くきっかけとなり、非常に有意義なものでした。

夢を叶えた嘉納治五郎、そしてその生涯の果てに

夢を叶えた嘉納治五郎、そしてその生涯の果てに

ストックホルム・オリンピック以降も、日本人選手はオリンピックに参加し続けました。日本人選手が活躍するにつれ、国民のオリンピックへの関心は増していき、東京への誘致を望む声も出てきます。そういった声に応えるべく、晩年の治五郎は奔走したのです。

しかし、当時の日本は満州事変や日中戦争といった軍事的行動を行なっていたため、世界から孤立する道を歩んでいました。当然ながら日本以外では、オリンピックの東京開催に反対する声が強まっていきます。それでも、治五郎は決してあきらめることなく、IOC委員会に東京開催を訴え続けたのです。

そして、オリンピックの最終的な開催地を決定する決選投票が、ドイツのベルリンで行なわれることになりました。治五郎はベルリンに乗りこみ、運命の投票を見守ります。

世界から孤立していた日本は不利だったのにもかかわらず、投票の結果、勝利を掴みました。多くのIOC委員たちは、日本という国には不信感を持ちながらも、治五郎の熱意にうたれて日本に票を投じたのです。ついに、治五郎と国民の夢が叶った瞬間でした。

それから2年後のカイロで行なわれたIOC総会でオリンピックの東京開催が再確認されると、治五郎はラジオを通じて「オリンピックを通じて平和な世界を実現しよう」と、国民に語りかけたのです。この言葉は国民の心を揺さぶったのですが、治五郎の最後のメッセージになります。

カナダのバンクーバーから帰国する船中で、治五郎は肺炎にかかり意識を失ったのです。そして、そのまま目を覚ますことなく77歳の生涯を終えるのでした。

治五郎は、生涯を柔道の普及とオリンピックによる世界平和の実現に捧げたと言っても過言ではないでしょう。そんな偉大な人物に感謝の意を示すために、現在でも多くの方が、治五郎の墓にお参りに訪れています。

嘉納治五郎 ゆかりの場所

嘉納治五郎はその人生の中で、偉大なる足跡を多く残しました。その足跡に触れられる場所は、現在でも存在しています。

以下では、治五郎にゆかりのある場所「講道館」「我孫子市の別荘跡」「灘中学」「墓地」等を紹介しているので、ぜひご覧下さい。

嘉納治五郎の柔道が始まった場所「講道館」

嘉納治五郎の柔道がはじまった場所「講道館」

講道館は、治五郎が柔道を通して「人が社会で歩む道」を教えるために設立した道場です。

また、講道館の設立には、「優秀な人材を育てて世界へ送り出す」という目的もありました。治五郎は「柔道の精神は日本だけでなく世界にも普及させるべき」と、考えていたのです。

優秀な人材を探していた治五郎は、天神真楊流(てんじんしんようりゅう)柔術の井上敬太郎の指導する道場で、西郷四郎と出会います。西郷の柔術を見た治五郎は、「彼は柔道の普及に必要な人材になる」と確信しました。

治五郎が西郷に柔道を指導すると、西郷はめきめきと腕を上げていきます。西郷は治五郎の「浮き腰」や「払い越し」という技を参考にして「山嵐」という技を編み出し、講道館を代表する柔道家となりました。

嘉納治五郎の柔道がはじまった場所「講道館」

1884年(明治17年)、西郷をはじめとする弟子たちに段位を授けると、講道館には柔道の登竜門として入門者が続々とやって来るようになります。一方で、「インテリが頭だけで考えた講道館の柔道は実践的ではない」と揶揄する声がささやかれるようになったのです。

この声を消すためには講道館の実力を示す必要があると考えた治五郎は、警視庁が開いた大会に西郷をはじめとした弟子たちを参加させます。この大会は、警視庁が強い流派を見定めて、その流派を武術師範に招くことを目的としたものでした。

大会で講道館が圧勝すると、警視庁の三島総監が講道館の強さを認め、さらに三島総監は、柔道が自分達の社会にも活かすことのできるスポーツだと語る治五郎の思いにも共感。警視庁柔道師範として、講道館から優秀な人材を借りたいと申し出たのです。警視庁が講道館の柔道を取り入れたことが世間に広まると、講道館を揶揄する声は聞こえなくなり、講道館の評判はますます広まり、海軍学校や大学などでも講道館の柔道が取り入れられるのでした。

嘉納治五郎が休暇を過ごした我孫子市の別荘跡

千葉県の我孫子市にある手賀沼のほとりには、昔の文豪たちの別荘跡が残っています。文豪たちというのは「白樺派」の柳宗悦、志賀直哉などです。文豪の別荘地として有名なこの場所に、嘉納治五郎の別荘跡もあります。

治五郎が我孫子市を初めて訪れたのは1911年(明治44年)。手賀沼と富士山を眺望できるこの地を気に入り、別荘を建てました。さらに、隣にも姪の住居として「三樹荘」と名付けた家を建てます。

姪が結婚して「三樹荘」を出ていくと、治五郎の甥が引っ越してくるのですが、その甥が作家・柳宗悦だったのです。柳に続いて、志賀直哉や武者小路実篤といった作家もやってくると、我孫子市は創作活動に打ちこめる別荘地として有名になります。この経緯からすると、我孫子市に作家が集うきっかけを作ったのは治五郎と言えるでしょう。

なお、我孫子市には現在も、治五郎の直筆が残る書物といった、治五郎に関連する品々が残っています。

「菊正宗酒造(株)」と嘉納治五郎が設立にかかわった灘中学校

「菊正宗酒造(株)」と嘉納治五郎が設立にかかわった灘中学校

秀才が集う学校として有名な兵庫県の灘中学校(当時の「旧制灘中学校」/現在の「灘中学校・高等学校」)の設立には、治五郎がかかわっています。

1927年(昭和2年)、灘地方の酒造業者たちは協力して学校を創立しました。菊正宗酒造株式会社の8代目社長「嘉納治郎右衛門」は設立代表者に就任すると、教育者として有名だった治五郎を顧問に迎えます。こうして翌年の1928年(昭和3年)に開校されたのが灘中学です。

設立にかかわった治五郎が些細なことにとらわれないおおらかな性格だったこともあってか、灘中学校の校則は自由を尊重するものとなっています。制服でさえも特に決まっていないと言うから驚きです。「校則が自由すぎて、風紀が乱れてしまうのでは」と思われる方もいるかもしれませんが、灘中学校の高い偏差値から分かる通り、生徒たちはみな勉学にきちんと取り組んでいます。

灘中学校でも治五郎は柔道を教育として取り入れており、体育とは別で柔道の時間を週に一度行ないました。

なお、校訓にある「精力善用」「自他共栄」という言葉は、講道館の理念にもなっている治五郎の名言の中でも、最もよく知られているものです。

嘉納治五郎の墓

1936年(昭和11年)、ベルリンで行なわれた国際オリンピック委員会の集まりで、第12回オリンピック大会の開催地を決めるための投票が行なわれました。

投票前に治五郎は「近代オリンピックはすべての国や民族に解放されるべきであり、アジアでオリンピックを行なうことは新たな平和への一歩になるはず」と、訴えます。このメッセージに感動したIOC委員たちが日本に票を投じたことにより、投票で日本は勝利し、東京オリンピック開催が決定しました。

1938年(昭和13年)、エジプトのカイロから治五郎はラジオ放送で、日本国民に東京オリンピックの開催が決定したことを報告します。「スポーツでの戦いを通して、お互いを尊敬し、信頼する心が世界中に広がれば、きっと平和な世界をつくることができるだろう」。これが治五郎からの最後のメッセージとなります。

ラジオ放送を終えて各国のIOC委員を訪問したのち、治五郎はカナダのバンクーバーから帰国するために船に乗りました。その船中で肺炎にかかり意識を失うと、そのままこの世を去ります。享年は77歳。

治五郎の墓は現在千葉県松戸市の八柱霊園にあります。八柱霊園は小高い丘の谷間につくられた公園墓地です。治五郎の墓は、石を積み重ねてドーム状にしたような不思議な形をしており、訪れた人の心に余韻を残すことでしょう。

毎年、治五郎の命日である5月4日に行なわれる墓前祭には、多くの関係者が訪れます。また、柔道の日本選手団は、オリンピックや世界選手権に出場する際、治五郎の墓にお参りに訪れるそうです。

嘉納治五郎の記念碑

2018年(平成30年)、神戸市東灘区御影本町にある菊正宗酒造株式会社本社の敷地内に「嘉納治五郎の記念碑」が建てられました。

神戸市東灘区御影本町は治五郎の生誕地で、菊正宗酒造株式会社は治五郎の曾祖父の兄が継いだ会社です。治五郎にゆかりのある町と企業が、治五郎の功績と柔道の普及がさらに広まることを願って記念碑を建設。御影石でつくられた碑は高さ1.4m、横幅2mで、「嘉納治五郎翁生誕地」と刻まれています。

治五郎のファンの方や柔道愛好家の方はこの記念碑を訪れて、「柔道の父」の生誕地を自分の目で確かめてみて下さい。

嘉納治五郎の名言

嘉納治五郎の名言

柔道の道を究め強くなり、地位や名誉を得たあとも、治五郎は決して驕ることはありませんでした。

柔道と学問において人より研鑽を積み、常に向上心や物事への関心を持ち続け、さらなる目標を作り自らが世の中の役に立つことを、治五郎は常に考えていたと言えるでしょう。

講道館柔道の指針として掲げられた「精力善用」と「自他共栄」という言葉は、嘉納治五郎が考案したものです。この2つの言葉以外にも、治五郎は生涯でいくつかの名言を残しました。

以下では、治五郎の名言の数々をご紹介します。

「精力善用」

「精力善用」は、治五郎が講道館柔道の指針として掲げた言葉です。

治五郎のように、小さい体でも柔道を使えば、相手の動作や重心・体重の移動を利用することで、自分の持つ力を有効に働かせることが可能になり、この原理によって、体の大きさにかかわらず、大きな力を生むことができる。そして、柔道を体得するために、鍛錬を積んでいけば、自己の能力はどんどん高まっていくのだと伝えています。それは柔道だけでなく、日々の生活にも同じことが言えるのです。

「精力善用」とは、そのような柔道の持つ力や理念「柔よく剛を制す」(柔弱な人が強者に勝つ)を使って、相手をただ倒したり、むやみに威圧したりするために使うのではなく、自らが持つ柔道の力を、自分の周りや社会のために善いほうへ用いることを教えてくれる言葉と言えるでしょう。

「自他共栄」

「自他共栄」も、治五郎が講道館柔道の指針として掲げた言葉で、相手に対して敬い、感謝することで信頼し合い助け合う心を育み、自分だけでなく他人と共に栄えある世の中にしようという理念から生まれました。他人のために尽くすことに理由を求めるのではなく、自らを省みず他人のために尽くすことの大切さや、自分勝手な行動ばかりでは、いずれ破滅してしまうことだってあるということも、同時に伝えています。

社会で生きる上で、お互いに譲り合って、みんなが幸せになる方法を採るのが最善という「自他共栄」の精神は、時代を問わず大切なことを教えてくれるでしょう。

柔道をスポーツという枠に囚われることなく、社会をより良くすることができるものだと伝えようとする治五郎の想いがうかがえる名言です。

「尽己竢成(おのれをつくしてなるをまつ)」

「尽己竢成」は、「自分の全精力を尽くして努力した上で、成功や成就を期待すべきである」という意味を持っています。

何かを成し遂げようとしたけれども失敗したとき、力を尽くしていないにもかかわらず、失敗を運のせいにしてはいけないと治五郎は説きました。裏を返せば、成功したいのであれば、自分の力を出し尽くす必要があるということなのです。

たとえ力を尽くしたとしても、失敗したときは、不運を嘆いたり、落ちこんだりするのではなく、勤勉を心がけ、辛抱強く耐えることが重要であると、治五郎は説いています。そして努力の限りを尽くした結果、初めて自分自身の運命を切り開くことができるのであり、それこそが真の成功者だと、この名言は教えてくれます。

「なにくそ」

治五郎は、幼少時に母からどんな困難にもめげずに立ち向かう姿勢を教わりました。困難に立ち向かうとき、自分を奮い立たせるために頼ったのが「なにくそ」という言葉です。「なにくそ」のあとには、「負けてたまるか」という言葉が省略されているのでしょう。

治五郎は幼少時以降も、苦しい場面でこの言葉を魔法の呪文のようにつぶやいたそうです。

嘉納治五郎の「遺訓」

嘉納治五郎は、1889年(明治22年)柔道に精進する後進の者たちに向けて、「遺訓」と題した講義を行ないました。その中で以下のような言葉を残しています。

柔道の本義と修行の目的

少年時代に体の弱かった治五郎が、柔術を学ぶことを通して見つけた言葉の数々です。治五郎の残したこの遺訓には、柔道の真髄が秘められているのでしょう。

嘉納治五郎の言葉に感化されたプーチン大統領

2017年(平成29年)に行なわれた第3回東方経済フォーラムで、安倍首相はロシアのプーチン大統領に「精力善用」と書かれた治五郎の直筆書を贈りました。プーチン氏は自宅に治五郎の像や肖像画を所蔵するほど、治五郎を尊敬していたからです。

プーチン氏は若い頃、講道館の柔道に打ちこんでいました。その中で、治五郎の「精力善用」や「自他共栄」などの理念に触れ、おおいに感化されたと語っています。

治五郎の柔道にこめた理念は、ロシアの偉大なる指導者の心も磨き上げたのです。

嘉納治五郎に関する書籍紹介

現在、嘉納治五郎に関連する書籍が数多く出版されています。

講道館柔道の技を写真付きで紹介する解説書から治五郎自身の言葉で構成された自伝まで、書籍の種類はバラエティ豊かです。

以下では、治五郎や講道館についてもっと詳しく知りたい方におすすめの書籍をご紹介します。

『嘉納治五郎 私の生涯と柔道(人間の記録2)』

治五郎が自らの歩みを振り返る自伝です。

柔道に明け暮れた修業時代や講道館設立までの道のりについて詳細に語られていることから、「柔道のルーツ」を学ぶのに最適の一冊。また、成功談だけではなく失敗談まで紹介されているので、治五郎の人間臭さも伝わってきます。

『講道館柔道投技(上・中・下)』

全3巻にも及ぶ本書では、講道館で教えている投技を67本、連続写真で解説しているのが特徴。講道館発行の月刊誌『柔道』に連載された写真も網羅しているため、柔道を志す人にとってはバイブルとも言える存在と言えるでしょう。学校や道場などで柔道に励んでいる方におすすめしたい一冊です。

この本の写真を参考にして練習すれば、技の習得が効率良くできるでしょう。さらに、写真解説集の中には有名な柔道家である西郷四郎の得意技「山嵐」の解説もあるので、この技の習得にチャレンジしてみるのもいいかもしれません。

『決定版 講道館柔道』

治五郎によって設立されてから講道館は100年以上の間、多くの柔道家を育ててきました。その講道館について本書は掘り下げており、日本のみならず、世界的にも評価される公式解説書として名高い一冊です。本書では、講道館の歴史から、多様な技や形の解説のみならず、記載されている連続写真には、治五郎だけでなく、講道館柔道十段・山下義韶や三船久蔵が登場する物もあるため、現在でも史料価値の高い書籍として知られています。

治五郎の唱えた理念や講道館柔道の歴史を知れば、柔道への理解がいっそう深まることでしょう。すべての柔道指導者をはじめ、これから柔道を始めたいという方、柔道愛好家にもおすすめしたい書籍です。

『まんが人物館 嘉納治五郎』

治五郎の生い立ちから晩年までを漫画で描いた一冊。活字に比べて漫画の方が手に取りやすいため、子供におすすめです。

また、治五郎に関連する「人物」、「年表」、「地図」といった資料的な記事もあるため、大人が読んでも勉強になることでしょう。

嘉納治五郎師範 没後80年式典・偲ぶ会

2018年4月28日(土)に「嘉納治五郎師範 没後80年式典・偲ぶ会」が行なわれ、東建コーポレーションから今回の式典に合わせ特別に制作された日本刀(刀剣)が献納されました。

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こちらは、柔道チャンネル「『柔道の父』嘉納治五郎」のページです。柔道の創始者として知られる嘉納治五郎は、柔道をスポーツとして普及させることはもちろん、柔道を通して、「教育」や「平和」に役立てようと生涯をかけて努力を続けた人物です。そんな嘉納治五郎の幼年期から壮年期までを紹介する他、嘉納治五郎の名言や、ゆかりの場所などをまとめました。柔道チャンネルは柔道施設の検索や柔道情報の発信を通じて、日本の柔道を応援しています。

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