著名な柔道家インタビュー

谷本歩実 元女子柔道63kg級日本代表インタビュー その1

2004年のアテネ五輪(柔道)と、2008年の北京五輪(柔道)において、史上初のオール一本勝ちで大会2連覇を達成し、2010年9月に惜しまれつつも引退した元女子柔道63kg級日本代表の谷本歩実さん。 そんな谷本さんに柔道との出会いや五輪でのエピソード、これからの活動などを中心にお話を伺いました。

谷本歩実さん

プロフィール

  • 生年月日:1981年8月4日 出身地:愛知県安城市 身長:158cm
  • 主な戦歴

    • 2001年 |
      世界柔道選手権大会(ドイツ・ミュンヘン)63kg級 3位
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 優勝
      福岡国際女子柔道選手権大会63kg級 優勝
      2002年 |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 2位
      福岡国際女子柔道選手権大会63kg級 優勝
      2003年 |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 2位
      福岡国際女子柔道選手権大会63kg級 2位
      2004年 |
      アテネ五輪(柔道)63kg級 優勝
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 優勝
      2005年 |
      世界柔道選手権大会(エジプト:カイロ)63kg級 2位
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 2位
      2006年 |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 優勝
      2007年 |
      世界柔道選手権大会(ブラジル:リオデジャネイロ)63kg級 3位
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 優勝
      2008年 |
      北京五輪(柔道)63kg級 優勝
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 2位
      2009年 |
      全日本選抜柔道体重別選手権大会63kg級 2位

妹と道衣を着て通った道場

谷本歩実さん私が柔道を始めたのは、小学校3年生のときに地元愛知県の安城市が行なっている柔道教室のチラシを見て、運動神経が良かったのと父親の勧めもあり、兄と一緒に始めたのがきっかけです。

学校では陸上や水泳もやっており、柔道は週2回道場に通っていました。陸上では県大会で優勝し、柔道も始めてすぐに県大会で優勝していたので、中学校入学前に陸上か柔道のどちらを選ぶかを悩みました。

そのとき、父親から柔道の方が向いていると言われ、小学校6年生の終わりから大石道場(大府市)へ本格的に通い始めました。

中学校では必ず部活に入らなければいけないものの、柔道部がなかったので、基礎体力作りのために陸上部に入ってトレーニングを行ないながら、週2回大石道場で柔道の基本を徹底的に練習していました。

道場へは妹の育実と柔道衣を着て電車で通っていたのですが、今思うと恥ずかしいですね(笑)中体連の試合では、中学校に柔道部が無いため打ち込み相手さえおらず、試合前のアップでは試合会場を一人で走って体を温め試合に出場していたことを思い出します。

柔道は一人ではできない、だからこそ相手に感謝することをこの頃から身に染みて感じていました。

独自に工夫して練習した学生時代

高校は、地元愛知県の桜丘高校に進み、柔道部に入部しました。それからは毎日部活動として練習ができるようになり、さらに嬉しいことに女子柔道の仲間もできたので、柔道が楽しくて、楽しくてしょうがありません。

それまでは陸上のほうが仲間も多く楽しかったのですが、この頃からだんだん柔道にはまっていきましたね。

しかし、当時はそれ程柔道部が強くはありませんでした。練習量も立ち技4分が10本、寝技3分が10本と全体を通しても、1時間30分程と練習量が少なく、4時に始まって5時30分にはもう終わっていたのです。

そこで先生に「もっと練習量を増やして下さい」とお願いしたのですが、「練習を厳しくすると部員が辞めてしまう恐れがある。生徒には、挫折よりも3年間部活をやり遂げたという達成感を経験させてあげたい。もっと練習をやりたいなら自分で頑張りなさい。」という先生の方針でした。

そのため自分なりに、高校時代は練習内容を工夫して充実させ、練習後は1人でトレーニングをしていました。

その後、筑波大学に入学し世界で活躍する先輩方に囲まれ刺激をもらいながら柔道に打ち込んだのですが、1年生の頃は先輩方の強さに、組むことさえできず受身ばかりの毎日です。

しかし、中学・高校と柔道に飢えていた気持ちが功を奏し、毎日意識の高い選手に囲まれ柔道ができる喜びが練習内容へと繋がり、2年生のときには世界柔道選手権大会に初出場し3位になることができました。

デコス選手との出会い

大学1年生のときに全日本ジュニア柔道体重別選手権大会で優勝し、2000年の世界ジュニア柔道選手権大会(以下、世界ジュニア)に出場することができましたが、この決勝戦で戦った相手がのちのライバル、フランスのデコス選手です。

この試合で私は得意の内股を返され負けたのですが、この負けがとても悔しくて一晩中ホテルの中庭で泣いていたことを思い出します。

その後、福岡国際女子柔道選手権大会にデコス選手が出場したときに「私は谷本に勝つためだけに来ました」と言い切られ、私とすれ違うときにはすごい形相で睨まれ、すごい気迫を感じました。

大会ではデコス選手への指導による優勢勝ちで優勝することができました。そのとき私は、試合内容よりも、デコス選手に勝てたことに喜んでいたのですが、試合後デコス選手から「指導は勝ちではない、だから勝負は決まっていない」と言われたときに、指導で勝って喜んでいた自分がすごく恥ずかしく思えてきたのです。

同時に私の信条である一本柔道を自分自身が放棄してしまったことに深く反省しました。それ以来、デコス選手にだけは自分のすべてをぶつけて、正々堂々と戦おうと思いました。

初めてデコス選手に負けてからの10年間、お互いに勝ったり負けたりの戦いが続きましたね。

実は、世界ジュニアでの敗戦後、ホテルの中庭で泣いていたときに一人の紳士に「大丈夫ですか?」と声をかけられました。

それから数年後、北京五輪(柔道)で優勝するのですが、「君はあのときに悔しくて泣いていたけど、北京では君が勝ってくれて良かった」と同じ紳士に声をかけられました。

世界ジュニアのとき声をかけてくれた紳士は、デコス選手のお父さんだったのです。

ライバル宣言

2004年のアテネ五輪(柔道)では、デコス選手が私との対戦前に負けてしまい、対戦は実現しませんでした。

2005年の世界柔道選手権カイロ大会で対戦したときは、初めて正々堂々と挑みましたが、思いっきり投げられて負けてしまいました(笑)。

これには、後悔することなく、改めて「すごく強いな、レベルを上げているな」と感じるくらい、私の気持ちがすっきりしました。

彼女と一緒に乱取りをする中で、それまではもう闘志むき出しで、一切会話することはありませんでしたが、お互いチャンピオンとなり意識するようになってから突然、彼女から「乱取りするのはこれを最後にしよう、私たちはこれから試合で戦おう」と言われたのです。

その言葉の意味は、デコス選手から私へのライバル宣言でした。ライバルとしてデコス選手に認められた喜びと、彼女との練習がもうできなくなってしまうという寂しさで私の気持ちは複雑でした。

そして、2006年のワールドカップの団体戦で、ライバルのデコス選手と久しぶりに対戦したのですが、私が自信を持って掛けた一本背負を、デコス選手はクルッと身体を回転させて着地するのです。

デコス選手の身体能力の高さの前に、私の技が通用しないことを実感しました。その試合では結局、得意技を返され負けてしまうのですが、今でも北京五輪(柔道)の次に思い出深い大会です。

そうした戦いを繰り返しているうちに、デコス選手との試合が楽しくなり、それから、彼女といろいろ話をするようになりました。

2007年にブラジルのリオデジャネイロで開催された世界柔道選手権大会では、私が決勝に進めなかったため、対戦はありませんでしたね。

その後、私がケガをしたこともあり、彼女との対戦はないまま、その間にデコス選手は63kg級のトップを群を抜いて走り続けていました。

戦いの中で芽生えた友情

ライバルのデコス選手と久しぶりに対戦したのが北京五輪(柔道)での決勝戦です。

デコス選手に、胸を借りるつもりで挑みました。私の中で最高の舞台で最高の相手と戦える喜びが沸き上がり、試合の合間に自然と笑顔が出る程でしたね。

そんな私に引き換えデコス選手は大きなプレッシャーを感じていたのか、いつになく緊張し動きも硬く感じられました。そんな緊張感の漂う試合が動いたのは一瞬のチャンスを捉えた得意技の内股です。

その後、東京で行なわれた世界柔道選手権大会でデコス選手は70kg級に階級変更し2階級制覇という偉業をなし遂げました。そんなデコス選手が「今の私を1番歩実に見てもらいたい」と言ってくれました。

今では一緒に食事をしたり、「フランスで一緒に柔道がしたいね。私のコーチになったら面白いかも!」と冗談交じりの話をするまで友情が深くなりました(笑)。

彼女とは誕生日も二日違いということが分かり、時を経て永遠のライバルから永遠の親友になったように思います。そして尊敬するライバルに巡り合えたことを感謝しています。

古賀稔彦先生との出会い

古賀稔彦先生との出会いは2001年ミュンヘンの世界柔道選手権大会の頃からです。

一番最初に教えて頂いたのは柔道の技術ではなく、「勝負に対する心」でした。担当コーチとして、世界柔道選手権大会へ向けて二人三脚で徹底的に指導して頂きました。

ミュンヘンでは「優勝したら肩車をしよう」という約束があったのですが、私が途中で負けてしまい、約束は果たせなかったのです。

2003年の大阪の世界柔道選手権大会では、大会1ヵ月前に肉離れをしてしまい全く練習ができず、その結果、大会では不本意な形で負けてしまいました。

試合後、古賀先生からものすごい勢いで「お前も悔しいかもしれないけど、俺の方がもっと悔しいんだよ」と言われ、その言葉に私は驚きました。古賀先生も一緒に戦ってくれていたんだと。

負けた選手に対し、また頑張ろうという言葉が妥当だと感じていた中で、この言葉は誰よりも熱く胸に響きました。

その後、期待を裏切ってしまったことで、日々悔しさが募っていきました。古賀先生は毎日電話をかけてくれました。しかし、このときの私には電話を取る自信がありませんでした。

その後1ヵ月半後の講道館杯全日本柔道体重別選手権大会で優勝したとき古賀先生と話がしたいと真っ先に挨拶に行き、嬉しくて大泣きしたことを覚えています。

その後アテネ五輪(柔道)を迎えるのですが、緊張からかトラウマからか試合直前になればなる程二人の会話が減っていきましたね。

アテネでの名シーン

谷本歩実さんアテネ五輪(柔道)当日は2人とも腹をくくっていたので、素直にいろんな話をすることができました。

古賀先生には、私が畳に上がるときに「必ず一本を取れる、取りに行け」と毎試合声をかけて頂き、初出場で緊張する私に自然体で戦えるように、良い雰囲気を作ってくれたのです。

そして念願叶い優勝した瞬間、私は頭が真っ白になり真っ先に古賀先生に飛びついたのです。古賀先生も「よく頑張ったな」と言ってくれましたね。

今思えばあのとき無意識にとった行動に自分でもびっくりしていますが(笑)、4年越しの約束が叶い凄く嬉しかったんだと思います。

でも古賀先生は、試合後のテレビなどのインタビューでは、「こいつが飛びついてきて重たかったんですよ」と照れくさいのか、笑い話にするんです(笑)一本とって一本持っていかれた感じです。

※2010年10月現在


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