著名な柔道家インタビュー

野村豊和 ミュンヘン柔道競技(五輪)金メダリスト その2

1972年のミュンヘン柔道競技(五輪)、1973年世界柔道選手権ローザンヌ大会の金メダリストであり、五輪3連覇を成し遂げた野村忠宏選手の叔父にあたる野村豊和氏に、現在の柔道に対する思いや野村忠宏選手の子供時代などのお話を伺いました。

野村豊和氏

心身共に成長した大学時代

野村豊和氏高校時代に全国大会で優勝し、国体でも全国制覇をしましたので、鼻を高くして天理大学の柔道部に入ったのですが、大学では、高校生の体力とは全く違うことに愕然としました。練習ではいつも投げられ、1年生のときは自信を無くしかけていました。

しかし山崎さんから言われた千本打ち込みを大学に入ってからも続け、練習ノートも試行錯誤をしながら書き続けていたので、徐々に練習にも対応できるようになり、背負投の力も身に付け、自信も取り戻すことができました。

そのあとは2年生のときメキシコで開催された世界柔道選手権大会(以下、世界選手権)に出場しました。

3年生のときに、台湾で開かれたアジア大会に出場して優勝。卒業して社会人になってからは、ミュンヘン柔道競技(五輪)にも出場できました。

特にメキシコでの世界選手権のときは20歳で、当時、最年少での出場だったと思います。私自身はあまり強いとは思っていませんでしたが、当時の天理柔道は日本を代表する選手が大勢おりましたので、その中で練習したことが肉体的にも精神的にも成長できた要因だと思います。

故郷に金メダルロードとモニュメント

野村豊和氏

1972年ミュンヘン柔道競技(五輪)にて
金メダルを獲得した野村豊和氏

私が1972年のミュンヘン柔道競技(五輪)で金メダルを獲ったとき、町内をパレードした思い出があります。

広陵町でも、おそらく奈良県でも金メダリストが誕生したことが初めてで、今後、金メダリストが出ることはないと思っていたのでしょう。ですが、私の甥である野村忠宏君がその後、金メダルを3つも獲ったのです(笑)。

彼は子供時代、見るからに体つきもひ弱で中学生くらいまでは「こんな子に柔道をさせていいのか」と思っていました。ただ、体裁きや技の入り方が非常に鋭くうまかったですね。力で攻めるのではなくて、上手く裁きながら相手を倒すスタイルで、力がなくても強い相手を倒すセンスを持っていたと思います。

これは私にも似た感覚がありますね。私もひ弱だったので力での柔道はどうにもなりませんでした。

彼は非力なところもあり、初めて五輪に出場したときは、私も不安を持ちながら応援していましたが、金メダルを獲ったのでほっとしました。その4年後に、また金メダルを獲ったときは、体つきも技も良くなっていったので、安心して見ていられました。そして、五輪3連覇という偉業を達成したのです。

その記念に何か残したいと思った私は、忠宏君がパレードをした豊徳館道場と役場までのつなぐ道を「金メダルロード」として命名して欲しいと、当時、広陵町の岡本町長に相談をして実現したのです。

竹取公園には、町の人が考案してくれたモニュメントが5本ありますが、1本は私、3本は忠宏君、もう1本は未来の金メダリストに名前を刻んで欲しいという願いを込めて、建立されました。

吉村さんとの戦い

現在の全日本柔道連盟強化委員長の吉村和郎さんとは、何回か対戦しているのですが、彼は変則的な動きで、さっと体落を仕掛ける巧者でした。彼も私の背負いを警戒していたと思いますが、私の背負いでは相手の変則的な動きに対して懐に入ることができません。

その変則的な動きを封じるには蟹挟※で勝負するしかないと考え、試合で実践して勝ったことがあります。その勝利によって彼に対する苦手意識がなくなり、その後、思い切って戦うことができたと思います。
(※蟹挟は、現在禁止技とされています。)

1973年にローザンヌで開かれた世界選手権でも吉村さんと対戦しました。

この大会では、私は軽中量級(70kg以下級)に出場することになっていましたが、体重オーバーだったために、減量で夜の食事を控えました。その翌朝も計量のために食事を取らず、昼にようやく食べられると思ったのですが、他の選手がみんな食事を済ませていたため、私は食べるタイミングを失いました。

それで午後の試合が始まり、準々決勝で相手に諸手刈りをかけられたときに、貧血状態に陥ってドクターの治療を受けました。

この負けにより敗者復活戦に回ることになりましたが、当時は敗者復活戦でも勝ち進むと再度決勝に行くことが可能だったのです。ですから、気持ちを切り替えて敗者復活戦を勝ち続け、準決勝で吉村さんを破り、金メダルを獲ることができました。

練習ノートで攻略法を見つけ出す

野村豊和氏背負投は私の得意技ですが、どうしても背負投では勝てない相手もいます。そこで対戦相手に応じて蟹挟や肩車などの技も磨きました。

身長が高く、手足にリーチがある人にはできるだけ間合いを取って、奥襟を絶対に持たせないような試合運びをするなど、対戦相手によってどんな柔道をするかを事前に考えながら試合に臨んでいました。

強い相手にいかに勝つかを常に考えていましたね。そのヒントを与えてくれたのは毎日欠かさず書いていた練習ノートです。

吉村さんや津沢さん、湊谷さんには、まともにぶつかったら勝てませんので、必ず相手に攻撃させない方法や確実に攻める方法を練習ノートの中で見つけ出し、それを実践したことが勝因につながっていると思います。

どんな相手でも嫌がる組み方など、どこかに弱点が必ずあります。そこを突くことで相手の攻撃を防いで活路を見出しました。相手を研究して戦えば必ず勝つという気持ちで試合に臨んでいましたね。

一線を退き、後進の指導に

野村豊和氏

1972年ミュンヘン柔道競技(五輪)にて
表彰台に上がる野村豊和氏

大学を卒業後、私は広告代理店に勤務しながらその会社の柔道部で技を磨き、ミュンヘン柔道競技(五輪)、ローザンヌ世界柔道選手権で優勝することができました。

しかし、社長が交代して柔道部が廃部することになり、私自身もサラリーマン生活は望んでおらず、柔道を離れる気もありませんでしたので、しばらく進路について考えておりました。

そのときちょうど和歌山県教育委員会から県内の柔道を強化したいというお話を頂きました。私は教員資格も取っていましたし、私の好きな海が近くにあることと、故郷の奈良県の隣りで、時々帰ることもできるので、そのお話を受けることにしたんです。

和歌山市内の高校で教壇に立ちながら、柔道部の顧問として36年間指導をし、授業で柔道の良さを生徒に伝えていき、2010年の3月で教員生活を無事終えました。

退職後は「野村道場」という町道場を開設し、近所の小学生を対象に柔道を教えています。今では子供たちと柔道をするのが楽しみで、死ぬまで柔道に携わっていきたいと思っていますので、普段でもダンベルを持ったりして体を動かしています。

私の趣味は、高校教員時代に行なっていたバドミントンです。テニスと違って何歩も動かなくてよく、手首のスナップが柔道でいう相手を崩す感覚によく似ており、練習でも取り入れておりますが、普通の柔道をしている子ではついてこれませんね。

勉強でもスポーツでも上手くいくためには「要領」があると思います。コツみたいなものですね。柔道も勝つ要領、勝ち方が分かればものすごく楽しみにもなりますし、厳しい練習をしなくても勝てると思います。

私も要領を知っていますが、それが柔道の試合で実践できない状態になったため、現役を退いたわけです。

※2010年12月現在


柔道チャンネルでは、柔道部・日本柔道・国際柔道・世界柔道・柔道整復師・柔整専門学校・接骨院の関連情報がご覧頂けます。また、柔道大会情報や柔道家・選手紹介、柔道組織情報、柔道お役立ち情報など柔道に関する情報が満載です。

注目ワード