柔道関連書籍紹介

高い志を持って勝負にこだわり、引退後も柔道界の発展に尽くしてきた佐藤宣践氏。
佐藤氏の柔道人生を記した自伝書「力必達」には、柔道の魅力や柔道界に対する熱い思いが綴られています。

佐藤宣践先生退職記念集「力必達」

力必達
目次

10.女子柔道部の育成

まだ日本では女子柔道の試合が本格的に行なわれていなかった時代のこと、昭和52年(1977)4月、東海大学柔道部に一人の女子が入部した。同期の部員38人の中の紅一点こそ宮城県から上京した西條美智子、現在の中西英敏夫人である。当時、女子柔道にまで手を広げることは考えていなかった。
しかし、宮城県で少年柔道の指導をしているOBの寺沢豊志君から「どうしても東海大学で柔道をやりたいという女の子がいるので一般入試で受験させていただきたい」と連絡があり、「勉強ができること、どうしてもというなら社会体育学科を受験させると良い」と、渋々返答した。今では、懐かしい思い出である。

昭和49年(1974)に講道館女子部で試験的な試合が行なわれた。以後、競技化が進む世界柔道の流れを追うようにして昭和53年(1978)には全日本女子柔道選手権大会が開催された。
東海大学柔道部にも斉田巳幸(社体)、吉田雅子(経済)、塩沢まや(体育)、そして八戸かおり(社体)が入部してきたが、彼女たちは全員武道学科以外の学部、学科に入った。やがて女子柔道の指導を担当していた松永義雄君が退職し、指導者不足となり、1983年度入学の大村嘉奈(社体)、稲沢ひとみ(社体)を最後に女子柔道部は休部となった。

その後1990年に、大阪の東海大学付属仰星高校の生徒で、インターハイ優勝、全日本強化選手になっていた松尾徳子(武道)が監督の小寺健仁君を通して「どうしても入部したい」と申告してきた。思案の末、白瀬英春君を強引に説得して監督を引き受けてもらい少数精鋭システムで女子柔道部の活動を再開することにした。

平成9年(1997)にIJF理事を退き時間的にも余裕ができた。女子柔道部を巡る状況も大きく変化し、オリンピック種目として世界的に普及し、国内でも盛んに試合が行なわれるようになった。
女性の社会進出が進み、スポーツ分野でも国際的に活躍する選手が増え、それまで男子中心だった柔道界も様変わりしてきたのである。そんな中、松前達郎総長の強い希望もあり、団体戦での全国優勝を視野に入れ、女子柔道部の強化に乗り出した。

平成12年(2000)の春、高校時代に華々しい活躍をした黄金ルーキーの塚田真希、新改七星、早田英美、鈴木亜矢子、小寺澤佳奈が入部して選手層が厚くなり、その年の7月に開催された第9回全日本学生女子柔道優勝大会で、優勝候補の筑波大(準決勝)、帝京大(決勝)を下して初優勝(5人戦)を飾った。
事実上の決勝戦と言われた筑波大との大将戦で塚田が薪谷翠を寝技で破り勝利したことが大きい。その後も二人は良きライバルとして競い合い、日本の重量級を支えている。

一気に頂点に駆け上った女子柔道部は、優勝候補の常連となり、平成15年(2003)、平成16年(2004)、平成19年(2007)と優勝を重ねた。

個人戦でも各大会で多くの選手が活躍し、中でも塚田真希は平成20年(2008)の全日本女子柔道選手権大会で薪谷に勝って前人未到の7連覇、田辺陽子が持つ6連覇の記録を塗り替えた。 国際大会でも、オリンピック・アテネ大会で金メダル、北京大会で、銀メダル、世界選手権大会では金・銀・銅のメダルを獲得し、女子柔道の第一人者になった。


柔道チャンネルでは、柔道部・日本柔道・国際柔道・世界柔道・柔道整復師・柔道整復師専門学校・接骨院の関連情報がご覧頂けます。また、柔道大会情報や柔道家・選手紹介、柔道組織情報、柔道お役立ち情報など柔道に関する情報が満載です。

注目ワード